〔メモ〕感情移入

「「精神」領域においては、主として表現の問題をめぐって、言語統一、人間統一および他者への
感情移入などが身体の役割として記述されている。しかし「心」の領域で扱われた身体と主観との
結合に関する諸成果がそこに十分とりいれられて生かされているとはいい難い。精神の考察では、
心は、精神の基底として統一的人格に組み入れられて感性層を形成しているので、あくまで志向的
機能の面においてのみ照明を浴びている訳である。だが、「自然の基底」である身体は、「自然一般
の経験の可能性に対する構成的制約」として働くものであるから、ロカリザチオンや、自由運動、
定位零点などの現象は、当然、精神の考察のなかでも生かされてこなければならないはずである。
すなわち精神が身体に対して精神物理的関係ではなく恒常的機能関係をもつとしても、身体はむしろ
この機能の構成的制約の次元において機能するものとして、心的領域の考察の成果がそこに活かされて
くるべきであった。ではなぜ領域的考察において身体のこの根源的機能が考察されなかったのであろうか。
 フッサールが志向的機能に対する身体のこの役割を正面から論じたのは「危機」のキネステーゼ論である。
超越論的主観性の意識分析論において、身体の持つ「自然的基底」の現象が正確に主題とされることによって、
身体現象の両義的正確の持つ意義が十分な具体性において理解されている。「危機」の分析は知覚意識とキネ
ステーゼの結合について触れている。キネステーゼの概念は運動と感覚の二契機からなっている」(新田義弘
現象学とは何か」)。
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・・・だから心身のネガティヴ・フィードバックとその果ての破綻みたいなものを、人は常に思い浮かべない。
にも関わらずそういう領域で骨がらみになったまま、他人に迷惑を掛けることで時間稼ぎする哲学だの科学
があり、行ってることは大筋で、カルトを経由した焼き直しなのだ。
               ♪
志向的機能に対する身体と恒常性、という事をまともに考えたとき、「腹筋してるのに筋肉がつかない」とか
「ダイエットしてるのに体重が減らない」みたいなことが、不自然かつ継続的に起きてる身体は、精神的に
壊れてる可能性がある(要は脳で出した指令が身体に届かなくなってる、変なオーダーでがんじがらめな
物体でしかない可能性がある。加齢で身体与件が変わることは当然なのだが、その事を他人に無理強いって
どうなのか。誇示するタイプも気持ち悪い)。