咲いた/知覚の奪取と現象学

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ある種の被害の中に、自分が見聞きしているものがそのまま境界なしに外化してしまうというものがあって、
分裂病の一級症状に他ならず、そういう被害を訴えている方々は辛いと思うのだが、オーソドックスな神学
現象学では想定されている事態ではあるので、その辺りの語彙を感覚域に充填出来れば一度に崩壊するのを
食い止められるのではないかという気もする(ほんとそんな事で病人認定されていたら世話ないと思うのだが)。

 現象学はやっぱり凄いが、ハイデガーのエクスターゼみたいな感覚の強さが一方にあり、そういうものとカルト
の内在的な結びつきについて、やっぱりクリアになり切ってないんだなと思う。その事を思うと大変気分悪い。
 フッサール半端じゃなく面白いと思いながら過ごす。にしても、一緒に石上玄一郎の事を思い出さない訳には
いかない。
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カルトが思考奪取を通じて何を地固めしてるのか、とか、何がアビューズされているのか、とか考えるのはしんどい。
というより全部を思弁の領域に移行させる事なんて出来ないから、人は自殺したり不審死したりするのだ。

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別段仕事と矛盾しないようにも思うため、「クオリア理論」専横させてないで現象学ともリンクさせた上で練り直せ
ないかというような事を思う。志向性にしろデカルト的な我の感覚にしろ、神経工学や脳科学で越権する一者が解明するのではなくて、本当は一般性の問題なのだ。時空のコードとか唯名論とか自然と直覚みたいな細かいモードが全部大雑把に
扱われてる気がする。


カルトへの感情移入の構造、というものがある。そこに没入すると単に身辺の状況や自然現象から心身の肌理を
備給出来なくなるような。一回現実感を削除して、そういうものを個人に強いるような構造についての言及、解明。