本屋にて

帰り際にピンチョンの全集を見て、欲しい…という気に。落ちついて全部ピンチョン読むのは至福の時だろうが、これも邪念の一つ。 ♪
そんな「昔取った杵柄」は無い気になりながら、ある哲学者(ドゥルーズ)の事を考えつつ、そもそも哲学に一般的かつ生物学的な基盤を求める事に何とも言えない違和感を持つ。バカ過ぎる。自分も往々にして色んな事に絶句したりしてバカであることは治して行きたいが、バカ過ぎて気持ち悪い、と感じる。

色んな事に対する絶句で最上位と言うか大きいのは確実にLEDの普及で、白熱灯生産中止になっちゃうんだ…というのを凄くリアルに感じる。調光した時のじわっとしたオレンジ色はやっぱり特徴的だが、それもどんどん再現できるようになるのだろうな…。
と、白熱灯蛍光灯の変な分派がどうなるのかも気になる。リネストラランプとか、無電極ランプとか。ハロゲンは無くならないだろうけどハロピンは無くなるんじゃないか、とか色々と気になる。

 以前提案した手前もあって(ランプ交換したくないという場合、大抵無電極ランプで照明計画をしていた:ダウンライトもあった)、調べてみると無電極パルックボールは既に生産完了しており、口金はE26なのでLED電球に移行も出来るかと
思う(確認する予定)。無電極が8年程度持つものでLEDが10年近い持ちではあるので、ランプ交換の手間省略には理に
かなっていた商品かなと思います。

      ♪
ドゥルーズについての想起、もう少し補足。以下は別段科学的観点でもなく、単に「クオリア」というものをWikipediaのコピペだけ参照してみた論旨なのだが・・・


歴史 (註:クオリアの)

クオリアという言葉は、「質」を意味するラテン語の名詞 qualitas (あるいは qualis) に由来する。この言葉自体の歴史は古く、4世紀に執筆されたアウグスティヌスの著作「神の国」にも登場する。しかし現代的な意味でこのクオリアという言葉が使われ出すのは、20世紀に入ってからのことである。
まず1929年、アメリカ合衆国の哲学者クラレンス・アーヴィング・ルイスが著作『精神と世界の秩序』[7]において現在の意味とほぼ同じ形でクオリアという言葉を使用した。

与件(the given)の識別可能な質的特徴というものがたしかに存在する。それは異なる諸経験において復現(リピート)し、それゆえ、普遍者の一種である。それを私は「クオリア」と呼ぶ。そうしたクオリアは、この経験においてそしてあの経験において何度も認識されるという意味で普遍者ではあるのだが、しかし物体の性質とは区別する必要がある。 … クオリアは直接に経験され、与えられる。そして、いかなる誤りの可能性ももたない。というのもそれは純粋に主観的だからである。他方、物体の性質は客観的である。すなわち物体に性質を帰属させることは、誤りのある一つの判断である。物体を述定することで主張されるのは、ある単一の経験の中で与えられうるものを超越した事柄なのである。

                                  ― ルイス『精神と世界の秩序』(1929年)

そしてこれはドゥルーズの「差異と反復」の要約。

 本書において、ドゥルーズは同一性の問題に焦点を当てている。例えば「ソクラテスは人間である」という言明において、ソクラテスという個別的、具体的な歴史的人物を指すものであるために排他的に用いられるものと、人間という諸々の差異を持った存在を共通して指し示すものが等しい事態が表されている。
同一性について、デイヴィッド・ヒュームは個々人の経験から一般的に正しいことを導き出せるか、またそれはどのように正しいと言えるかを問題とした。本書は、このような同一性の問題に対して、多種多様であるはずの存在がどのようにして同一の存在と見なせるのかを検討し、同一性で処理できない差異性とその反復の過程を明らかにした。
ドゥルーズは、連続する「ABABAB…」という列が「AB」の反復として認識されることを指摘し、そのような認識が、認識の対象が持つ本質ではなく認識者の想像によると論じる。そしてそのような同一性の認識は、認識者の受動的総合から発生するため、精神による意識的な作用ではないと考える。まず精神の作用が及ばない領域で認識者の過去の経験は現在に「処女的な反復」が行なわれる。これにより、それ自身では同一性を持たなかった存在が理想化され、縮約される。ドゥールーズは、このようにあらゆる存在の同一性が過去に得られた経験とその受動的総合、処女的な反復によって決定されることを踏まえて、哲学という活動の同一性を見直すことを主張している。存在が過去に規定されることは将来において連続される事態であり、過去は現在における別の反復を準備し、それゆえに将来における行為の条件となる。ドゥルーズはここから脱却するためには一度も反復されていない過去を見出すことによって、新しい存在のあり方を志向できると論じる。

 ・・・要は一枚のカエデの葉っぱを見た時に、その形からカエデだと認識していれば何枚同じ形のカエデの葉が落ちてきて
も、おなじカエデの類としての質感を持つ、みたいな事を「カエデのクオリア」と呼ぶ、みたいな考え方の基礎になったものを提示した人が1920年代に居たのだろう。
 ただ一貫して、そこには神学的なモチーフが与えられており、その源泉になってるのはキリスト教なのじゃないかと
想像する。
 ドゥルーズは例によって造語が多く、「処女的な反復」にしろ「裸の反復」とか「着衣の反復」というのも何か文学
的に了承する事は出来てもよく解らない代物なのだが、取り扱われてるのはキルケゴールの反復でもあるのだった。
 けれど超越した立場から同一性を備給されるのではなく(キリスト教ならキリスト教を予め安全地帯として確保
するんじゃなく)ずっと意味をずらして生成し続ける事が重要なのだ、というのがそれこそポスト構造主義的な論旨。

 何のタームを重んじるかはともかくとして、感覚についての問題提起自体は結構似通ってる所がある気がする。
・・・が、「茂木クオリア理論」のようなものにとっては、何が感覚的同一性の基盤と、同一性以前の課題として与えられてるのか全く不明なばかりか、それを都度都度大手メディアに丸投げしているような印象のせいで、肝心のクオリア自体がどんな性質なのか、科学的手法から演繹することが出来ない。

前者に白洲次郎のプリンシプルとか、英語の世界性とか、資本の蓄積の強大さとか下手するとそれをネタに強権発動
まがいの論旨を押し通す事とか、新興宗教の変な信念体系の頑なさとか、脳科学というものの比較的正当性を認められやすい部分を代入し、後者にどうでもいいような多様性の称揚(リクルートスーツ反対だの韓流ドラマ見ろだの、稼ぎから
納税分を放棄した開き直りだの)が代入されているだけなのでは、という気がする。それが茂木さんの主観を通じてローテーションで出てくるだけ。更に悪い事には、恐らく感覚的同一性の基盤としての他人の脳を物理的に調べ上げたいし、それをするためにカルトから資金提供を受けているのである。
Wikipediaクオリア前半部、「概要」のところを読むと、こんなもの実際の走査がなきゃ解る訳ないじゃないか、と
いう気がする。ただ、普通の生活者一般は自分の目が赤という色を認識するときの物理的与件を問わないし、神学的
にどういう事かを問うこともない。そういう与件が常にオープンになって自己制御出来なくなったら、大変分裂病の症候ににた話になる(分裂病では意味づけの回路が壊れるので、見るもの見るもの陰謀によって提示された赤いものに思えて
しまったり、実際それが神のせいでもたらされた赤だ、みたいな妙に沸きあがった話になる)。ただ、当のカルトは
そういう意味づけの壊れた世界を恣意的に選び取って、他人に負荷を掛けているように思う。
 そういう事が続くとノーベル賞どころか、普通の生活者の心理的与件に全く合わないと思われる可能性が高いと
思うのだが・・・。
 何だかそういう被害を受けた人にドゥルーズを読む負担を強いる必要はないように思うし、もっと具体的に役立つ
解法を提示したいという気がする(押し付けられた負債をどうにか回収出来るようにというのもあるが、それ以上に
やっぱり、個別の感覚と主観性の優位を言いたい。それがないと人は集団の同一性に居直ってとんでもない詐欺師に
同化したり、権威主義になったりするのじゃないか、という気がする)。

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こんな事より簡潔に手仕事なりモダニスム文学の形式なりが大切だったのだが、まあいい加減な代物だなぁと思う。
一般定立や自然過程や自明性は現象学なんて経由しなくても社会態の中にあるので(要は不自然で混乱した方向にだけ物事を引っぱって行こうとする意志だけで現実が形成されてるという事はない)、そういう物事とのリレーションを(うっとおしくない程度に)つけて現実感を高めて行けばいいのだが、自分が解くべき命題(例えばクオリア)をはなから他人の権限侵害(利権団体のいい加減な意味付けとか)の上にしか定立出来なかった人は常に危うく、本来ならそういう病理はその人にごく近い家族とかが迷惑を蒙れば済むだけのものじゃないかという気がする。
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感覚の同一性と差異が何によって画定してるのか・・・というのは、エスニシティとかについて考えるにも結構大きい
課題。(ただ、普通は暴力だの情報操作だけを一方向に押し切ろうとする国家は、「そういう民族性なのだから
仕方ない」なんて言われず問題視されると思うが)。