何からも自分の身体と精神の自由を制限されたくない

と、正当に考えたとき、ほんとに何が可能になっていてどう規制され得るのか。くっきりと考える必要性がある。

外出先でちゃんとした含蓄しか自由な感覚につながっていないのかも知れないという事をしみじみ感じつつ、内面に照らしてみた時に対応物がなく説明も成り立たないというのが凄く不自由に感じられる。だから茂木クオリア理論のようなものは不自由なのだ。クオリアという概念自体には当然含蓄があるのに、全部無化した上で脳科学を通じて他人の心身に采配を振るう権利などないのでは、と思う。

含蓄のないものは普通「含蓄がない」の一言で終わる。(が、反動化してる分うるさい)

「松は軽軟材だから作業しやすく、簡単に手に入る。若い頃はこれを使っていろんなモノを作った。でもある時、私は米松のモミ材に惚れ込んでしまった。縦目のものだ。これにニスを塗ると目を見はるほど美しい深みが出る。切れ端をニ片組み合わせるだけでも、無数の可能性を感じてしまう。そうして作業するうちに、コツのようなものを学んでいくんだ(デヴィッド・リンチ)

継手を見せて頂く機会があり、日本の技術はやっぱり凄いのだと思う。
(木の特性を捉えており、動物にも機械のパーツのようにも見えるものが建物の継ぎ目にあり、建物が成り立つと隠れてしまう、というのは楽しい)