例えば

bobbinsmall2012-07-19

「こうして見るとこの教説の全体は、人間的意志の実験以外の、そしてわれわれの行為を永遠化する試み以外の何物でもないように思われる。無神論の体裁をした宗教の代用物という事である。「ツァラトゥストラ」の文体や、多くの場合細部に至るまで新約聖書を模倣した構成などはそれに応じている訳である」(カール・レーヴィット永遠回帰というニーチェの思想」パサージュ論D9,4)

新約聖書を特権化する訳でも何でもないが、こういうのはシンプルな(「シンプルな、あまりにシンプルな」)ニーチェについての見解だ。要は屈託したキリスト者だったのだろうという。それ以上に梅毒だったんだろうという気がするのだが。ニーチェと同じにしたら怒られるだろうが、キリスト教異端の儀礼(例えば摂理や統一協会)に、 異端なりのルールがあるのなら、影響を遮断するために儀礼言語化する必要も、日本古来の精神性と言われてるものに対する差異を検出する必然性も、(どちらかというと民族学的な手続きとして)あるのだろうと。
そのとき、山人に対するタブーのように、そういう外来の新興宗教儀礼がタブーかを思うが、本来単に下品過ぎるので感化されたくないというだけの気がする。そんな事思いつつ、通勤中読もうと何冊か谷川健一を購入(昔書いた「かくれ
キリシタン」についての童話を思い浮かべていた)。