トマス・ピンチョン

帰りに本屋さん寄るにつけ、トマス・ピンチョン読みたいわと思う。というより単に読む事が意味を成すような時間の一画を頒けて欲しい。じゃないと人間単なる肉に過ぎないしそれが転換出来ないと鬱陶しいという気に(季節柄余計に)
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ピンチョンと同じでおそらくまとめて読みたいだろうと思っていて結局読むに至らない本に中島敦があり、何か内的な
しっかり感とか心理的リソースの気持ちのいい使われ方に、どちらも特徴があるように思うのだった。「光と風と夢」
の事を考える(青空文庫で読めるみたい)。あんな話は結局小説だったのだと思う。スティーブンソンという他の作家
や文脈にについての言及であるという事を含めて、そんな感じだったのだ。
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「L.Aヴァイス」という本はポップそうだが単に固有名とかドライヴ感とかポップな体裁と全然別の問題として、
国家権力と洗脳の問題が在るのだろう、という気がする(それを下敷きにしないと海外文学、というか、スリップ
ストリームの文学自体無かったような気がする)。にも関わらず一切事情に触れてはならない、という、禁止の
オーダーを出している側の利害って何なのか。

その新興宗教の末端信者さんは別に悪くなく、単に財源にとりついてる(極端で動物的な)左派がやっぱりおかしいの
だろうという気に。(そこで本来ならもう少し重層的に考えられそうな事が、全部シンプルな隠喩の幾つかに還元されて
しまい、どうでもいい状態で停滞するように思える。何かトマス・ピンチョンと一緒にどうしてかアントニー・バージェ
スの事を思い出してしまうのだが、キリスト教圏だと喩と重層構造が在り暴力や不合理は別トライブになってる
という考え方が、わりと普通のように思う)。
洗脳を含む何か暴力的なとばっちりが心身に作用しようとしている時に、関係妄想とかパラノイア状態にならず単に
近−現代思想の成り行きから状況を割り出す事は出来る気がするが、何となく起きてる事に比べて動機が陳腐に思う。
嗜癖として暴力沙汰が好きな人が増強の為に新興宗教に恩義立てしてるだけの事なのか、と思う。
地下鉄サリン事件の後遺症の途方もなさに比べて、盗用とか電磁波(?)のアビューズはまだ軽いのだろうけれども、
そういう要素の下で免許取ったり運転する必要は全くないのではないかという気に。