サフランが

昨年植えたものの分球で芽が出てくる。地植えに近い環境を作ってあげられれば植えたままでよいのかもというようなことを。来年はエクステリア勉強しようか、というより何か咲くか植えられているだけでかなり嬉しいという事があるのだが。ひまわりは昨年に続きなんとなく失敗。

年末にブイヤベースというのは(生きたオマール海老を煮るのも含めて)ちょっと過剰だったという事で今年はもう少しあっさりしたもので考える。海老を煮る手順が分かって良かったのだが。というような話をしつつ、昔コックさんにレシピ習いつつバイトしていた飲食店が閉店した事を聞く(曰く付き過ぎる店だったが)。

つくづく何が「ノルウェイの森 左翼 陰謀」なのという気がしながら。
呆れる程汚いというか、単にくだらね〜としか言えない話に固執(フロイト的な意味での固着か)したままである事の凄さというのはあるのかもなと思う。
村上春樹さんの小説(というか、個人的には「アンダーグラウンド」と翻訳の「心臓を貫かれて」)は凄いと思うが何か、ノルウェイの森という曲に対する(ビートルズ全般に対してなのか)極左っぽい思い入れってずれてる気がし、自我弱女性を何か実存的な話をネタに教化してたら自殺してしまい、あと自殺が連鎖する(連鎖ではないのか)事に積極的な意味はない、と思う。ただ元極左という人たちは嗜癖としてそういう話が好きであり、その嗜癖を他人に投影するのならやっぱり教祖体質というか迷惑な存在だと思うのだが(その投影にマインドコントロール的なプロセスがある場合も含めて、投影を解除する手間が一段階増えるのだし、そのコントロール方法の内実というのはほんとは重大な事件毎にケーススタディを作って乗せられないようにしておくべき事じゃなかったかしらと思う)。
そんな事で死んだらほんとに非業の死を遂げた方々に申し訳がたたない、みたいな感覚が欠損したまま、裏で他人なり特定の国のスポイルに血道をあげて、時にはほんとに他人を自殺とか不審死に追い込みながら、表で道徳を振りかざしてテレビ出たり生活雑貨売ったりしないで欲しいのよねと思う。