プルースト

結構一瞬で、読んだ当初の嗜好としてブルトンが好きで
プルーストはやっぱり難しい、とか決まってしまうもの
なのだなと思う(物理的に面倒だという事もあるが)。Wiki
pediaに書いてあるようなプルーストの特性(知らないもの
もおおいのだが)からそれを文化資本として画定する態度なん
て全く推し量れず、単に読みたいときに読めばいいだけな
のだが、どうなのだろうという事も。
(一回も「社交界」的なルールも佳き趣味も身につけようと
した事がない為、恐らくプルースト何も読めておらず言いがか
り。というより社交界シーニュに出入りする事の空疎さが
読んだときそれ以上のものとして感じ取れなかったのでは
ないかと思っている)。
           ♪
「意識」についての文献学的整理が単純にめちゃくちゃに
思えるのと、実存感覚を支える筈の文学と金銭的なやりくりの
大本にある新興宗教の間の葛藤があんまりにも消去されている
のと、オーソドックスに役立つ科学知なり技術(それは普通の人
がごく普通に持ちうる技術)に対するコンプレックスとクオリア
理論みたいな空疎な設定と…と思うとひたすら不気味。
そのまま「未来を志向」させて「人の脳に衝撃を与える」事
を政治的行動と結びつけさせたら、冗談じゃなく最悪のファシ
ストにならないんだろうか。

カトリシズム(わからない)と単なる個人の資質の対立や並立、葛藤が作品に残存するように、新興宗教との心理的葛藤はあって然るべきなのにも関わらず、ある向きの意識の内容物としてそれが全く問われないのはつくづく鳥肌が立つ程に気持ちの悪い事であり、いくら優れた(?)洗脳技術を持っていようがその気持ち悪さ(葛藤の消去から来る)は残存する。

富の蓄積と「社交界シーニュ」とか呼ばれるコミュニケーションがひたすら新興宗教の教祖を介在した人的資質の入れ替えだったら不気味。ブルジョアというよりその財源は(ある説を信じるとすれば)たかりとか取り立て屋だと言うのだ。

品川のPAPER WALL ブルータスの糸井特集置かなくなり、手帳もどんどん押しやられているのだが、なんかもうもっと決定的に糸井重里的なものの不要さを追及出来ないんだろうか。第一ほんとに悪相だと思う。クリエイティヴとか何とか一切関係ない。ダウナーで下品な表情。
     ♪
つまりは「社交界」のような予め幾分かは富と趣味の佳さが保障されている領域での
記号的なやり取りにさえ疑いを感じるのに、たまたま金満家でしかもそれが新興宗教絡み
の人的資源と振る舞いの潤沢さに裏打ちされている場合、何も喚起され得ないような
気がしている。
時は失われず、何も求めない、というのは無欲のシーニュでなく社交性として設定されたあり方にあまりにも求め得ぬもの(文転に失敗した疑似科学者がベルクソンを援用しようとしているが気持ち悪くノーベル賞は貰えない)が蠢いているから、というのは笑い話でなく、何年も失われてるのはほんとにそういう人が文化だの思考に裁量を振るっているからに思える。

大体新興宗教とか中核派が中核の社交界って何というか。おかしーぞじじい、みたいな怒号を飛ばして欲しいしそんな脳科学も手帳もいらなすぎる。
       ♪
 Chelsea daggerかかるがそう言えばコステロのChelseaのほうが好き。