カランコエの根元に

青虫が(ガの幼虫かもしれない)。ごはんを食べてるっぽかったので鉢ごと少し外に出す。この時期夏には居て食事してた家守さんは居ない。

時空間の把握と把持を形式化する上で、何が取るに足りない事なのか、というのは立ち返る問い。「プルーストシーニュ」にも差異と反復の論理が折り込まれてるが、凄く感慨深い。
     ♪
用事が終わって本屋でつい「カフカ夢分析」(F・ガタリ)を衝動買い。電車の中で読む。
(カフカの夢の輪郭について多々思う事あり)
「(前略)とりわけ《恋文》というジャンルには特別の位置が与えられなければならない。
このジャンルは、常に同じようなステレオタイプのシナリオ−すなわち、まず最初は
殆ど未知の女性を手紙を通して獲得し、ついで誘惑するにいたり、最後にはその女性が
深刻な錯乱に陥るようなかたちで遠隔操作するといった−を含んでいるという点において、
実際に倒錯と隣接しているジャンルなのである。しかし、この主の激しく脱領土化された
享楽を、出来る限り長期にわたってそのまま維持するという所業には、不可避的に限界
が付きまとっている」という一節がおかしくておかしくて大笑い。

ストーカー行為の中にメールの傍受とか宛先の不安を煽るような文言の引用(個人的な
やり取りのトレース)がある場合や、本来私的な事柄として明文化されないような心理的
挙動をしつっこく解読しようとする努力があった場合、やっぱりそれは倒錯的なものな
のだ、という気がする(ウザさ満載な訳であり、《恋文》という
ジャンルに限らずインティメートな所字全般に対して僭越過ぎる気がするのだが)。
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糸井重里もそうだしある種の「ああこいつ変」というのが継続的にしてるのがそういう
動作ばかりの気がしており、やっぱりデルフォニクスの手帳とか他の感じのいい文房具
からしてみると気持ち悪い、という気がする。
問題なのはそういうコミュニケーションで足元を掬われた果てに自殺に追い込まれたり
犯罪を犯している人が本当にいるらしいという事であり、「ほぼ日手帳」もそうだが
糸井重里のしてる事は全般的に(被災地の支援も含め)基底に倒錯的な疚しさのあるもの
だという事を、もう一度しっかり強調したい。
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ミル・プラトー(レーベルの)のクリック&カット特集というのは欲しいような。
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青っぽいガーランドとゆらゆらする光のオレンジ色、黄色のガーランドで飾られた
自宅近隣の小さい木(と、その根本に植木鉢)。
意識の流れに固執しており、それは流れるものを鋭意に夢の立体化したものとして捉えるし、ほんの小さな手元の場所から他の区域まで横断線を引きながらそんなふうにしている。(個別の記憶からその外在に向かっての反射)。