東京ガス料理教室

が、好き。当たり前の事なのかも知れないがなんの懸念もない清潔感にさらっとした美しさ。おいしいケーキをこの時期に作れるようになり、同じようには決して作れないのだがとても上機嫌になる(私の作るマドレーヌは何かみっともなく、お菓子を作っていて分量出してから、クリームを絞る以外口金を使った事など無かったため、大変新鮮な気分になる)
ピピッとコンロさすがに使いやすい。五徳のまわりの掃除がとてもしやすい。 ♪
どうでもよい社交界があるかないか(私には社交界いらないみたい)以前に料理はオーソドックスにきれいなとこで作られないと怖い。こればかりは人間のデリカシーとして大事な事のような気がする。思想の傾向と関係なくねじめ正一の詩みたいな空間性で食事作るのは病んでるからだと思うのだが、それで売り物まで企画する「ほぼ日」はやっぱり消費者をなめているのだという気がする。

失われた時を求めて」のマドレーヌ、紅茶でなく菩提樹のお茶となっていたような気がするのでリンデンかと思うのだが実物はどうなのか。

駒場というかリリースなしで大時代的な価値観を押し付けてくる学律、やっぱりまともな神経じゃかかわり合いにならないのではないかという気に。
…「恋文」というジャンルと遠隔操作や官僚性(警察社会)というのは、何だか結構アクチュアルな気がするのだが、別に特定の個人とコミュニケーションを取るつもりはなく、最早引用いい加減にしてくれないかという気だけがする。文系の学律で大した展性もないのに(人形だの服装倒錯だのが繰り返し問題になるだけで)、妙に干渉的なの表象文化論科が一番どうしょもないのではないか。
「養老クオリア理論」的なものの胡散臭さも含め、何か愚にもつかないものの生産の場に思え、その中に確実に「勘違いして子供をスキゾキッズに育てようとする研究者」とか居そうで気持ち悪い。何か以前袋に入った人形(天野可淡か)の写真を貰った時のえっ怖いし、という感じを思い出す。

普通に過ごしてて「倒錯者」って何か過剰だしその倒錯の基盤が何なのか画定しきれる筈もないが、そのあたりの事情に科学者なら科学者、文学者なら文学者でもっと自覚的じゃないとへんなのではと消極的に思う。