茂木健一郎

は、何で名古屋で私と似たような写真を撮ってるのだろうか(あのビルは多分新宿の専門学校のビルと同じで派手なので撮ってみたのだが)恐怖感というか何考えてるのか全く理解出来ないと思う。

科学者で自然科学が前提にしてるものを突拍子もなく踏み外してると胡散臭いのだが(見た目超常的な事が起きようがその事に無自覚なら科学者を名乗るなというのがまともな考え)、だからといって安直に文学に言及しても、文学は文学で前提になってるものがありそのあたりが関心もないので全部パクりなのだろう、と思う。14行詩は14行で書くのと同じで制約が別にネガティブな意味を持たない場合でも、要は間が全然もたないのだろうという気がする。
茂木健一郎文学作品を全然読まない人なのだろうと推測する。だとすれば日本の文学者、どうしているのだろうか。当たり前だけど無理押しで流通させた本にほんとの事が書いてあると限らないし、もう相当に衰弱してる教祖が要人と対談してるように見せ掛ける雑誌はおかしいので、ある程度は文学なりのリアリティを書き残す必要があるように思える。(大体仏教がぴんと来ない人間に妥当しない)
迷惑なので人の生活に言及するなと言ってから7年以上粘着してくる異常さ、普通にサイコパスだと思うのだが、脱税の件も含めて広範に市場に迷惑掛けすぎじゃないのか。
あと何年粘着してくるつもりなのか知らないが絶対にその宗教に入信したくない人は結構多いのだし、自分が脱税に累犯でストーカー男だという認識をいい加減持ちなさいよと思う。

文学の形式上の問題というか、そうすると「私小説論」の論旨って結構間違っていないんだなと思う事頻り。構造とか論旨のしっかりした広範な客観的事実を書き残すことの難しさみたいな事なのだが(核に新興宗教のドグマがあれば当然かも知れないけど)

そうは言っても失われた時を求めては結構面白いのだが、当たり前だけど名作だから読んだとか厚い本だから読む、みたいな事なんて感想のうちに入りもしないような気がするのだが。茂木健一郎という人のそういうデリカシーの壊れた感じも凄い不気味。科学者としてもおかしいが文学に言及するのにも5流以下という気がする。

なんか失われた時を求めて読みたくなってきた。
というかベンヤミンてこれを自国語に翻訳してたのだと思うと偉いなぁという素朴な驚嘆がある。出自がブルジョアナチスの被害者としての時間性というか人生の成り行きと並行して顧みると、なおさら。

ベンヤミン暗殺説というのはどうなのか、つらつら考えながら。電車隣にキンドルを使っている人がおり、確かに使いやすいのかもと。

笑い事でなく、文学とも科学とも関係ない単にアブノーマルというジャンルの出来事があり、私には茂木健一郎がそういうジャンルの使者にしか思えないのだ(あんまりにもアッパー過ぎる脱法行為への拘りは何なのか)。それでふーん50歳なのか、と思うと、優に一回り以上若い私にこの期に及んでよくも 付き纏ってくるねぇと思う。

あと50年以上自分の人生が続くとして、40から50にかけて(と60代か)のおかしい感じの男がしつこいというのは、当然自殺の原因にも体調不良の原因にもしたくなく、単にそいつらを精神科に入れればいいような気がしてるのだが。