魚のエサやりは何故楽しい


口が可愛らしい。ごはん〜

鯉は頭が丸い。

血液型占いも星占いも全く信じておらず、そのラインでブルトンを読む事がないのを明記する。(田中純相変わらずキモい)
本からばい菌があがる気がして焼却処分した事がある。

仕事の帰りに出先のカランコエをくれた古本屋さんにて、デリダ「哲学における最近の黙示録的語調について」を購入。黙示録については今年の6月11日の日記に書いた。それほど厚くない本で帰り道に読み切ってしまったらちょっと粗末に(体感的に)読みすぎるという気がしながらも、読み出すと引き込まれてしまう。哲学の埒外にある反知性的で神秘化された保守性の基盤になっている感覚と、黙示録というテクストの類似を指摘する(非合理な神秘性の源泉としての黙示録)という話なのだが…
別段ものすごく哲学が好きでないにしても、ちゃんとデリダは単なる市民権みたいなものがドロドロした暴力性や神秘的宗派によって蹂躙される可能性について触れているのだ。猟奇犯罪が完全に解明されない事も教化の主体が居丈高な事も黙示録的だが、それは裏返しで特権(階級?)意識を支えて大衆をマニピュレートすると。ただマニピュレーターの思惑と別のところでしか気分のよい晴れ渡るような生活なんて営まれてないんじゃないか、というような事を思う。

オウムの空中浮揚は別に大衆操作などではなかったと思うのだが、それにマニピュレートされてしまうような人もいた訳であり、同じように人の思考とプライベートな情や感覚を操作出来る立場というのは、いくら脱法行為と人権蹂躙の上に立脚してたとしてもマニピュレーターとして意味を持ってしまう事がある。
感情生活をくまなく監視されずに済み、成人したら他人にあれこれ言われず移動出来るというのは市民権の基本だと思うのだが、数名操作する側がいれば(それで警察がそれらと利害一致させていれば)それらが利殖に集中して問題の下地になった構造は問われないまま、となると話はディストピア小説みたいに見える。 ♪
パトモスの書記者ヨハネのアポカリュプス(覆いを取る)テクストとしての黙示録という時、覆いを取る事の中に隠れた生活(性生活を含む)の開示が含まれているというのがデリダの指摘だが、うわ〜絶対デリカシーのないカルトに言及されたくなんかないし、というような事を思う(ただの覗きとどう違うのか)。というか素朴にまともな人権感覚の彼岸で起きる出来事で同時に下世話であり、それが問題視もされず特定のエスニックグループに執行されうる世界というのは凄い杜撰な気がするのだが。しかも権利侵害によって何か他人のマニピュレートをしようというのも、おじさんの発想で全然思想家の仕事の気もせず、フランス文学面白いのにそんな事に居直られたらどうすればいいのかと思う。 ♪
仏教系カルトの人権侵害なんて恐らく自殺の原因にしちゃいけない事であり、まともな社会性の為にはその人たちが何をするかしっかり内実を明らかにした上で実名で責任を取らせるべきかと思う。