これ


ほんとは宗教にびた一文払いたくないのだが、
偉いしまともだと思うのは子供の頃も含めて、
私はプロテスタント教会の人から変な勧誘受けたり
異様な圧迫受けた事が一度もない。大体ごはんを
食べて帰って来るだけだった気がする(教会員で
なくてもごはんは貰える。ごはんにConfession of Faith)。
(韓国系のプロテスタントすごい意味不明と思うのだが)。

のっぴきならない事情で入信してしまった人も居るだろう
から、あんまり攻撃したくないのだが、エホバについて書いた
次の日に上記リーフレットが入っており、やっぱり何かヘンな
ネットワークがあるのじゃないかという気がするのだが。
下地がある方が洗脳しやすいとか、その手の目論見でホールド
されて迷惑する(伝統宗教の)信奉者って結構居るような気も。
ほんとはもっと社会問題化すべき出来事なんじゃないだろうか。

全く傾向無しで日本の宗教事情について概観出来る宗教学者さんが
書いた、カルトの動向も含めたここ50年ぐらいの日本の宗教史があ
ったら是非読んでみたいと思う(ポストモダン以降の消費項目としての
宗教に、オカルトやご都合主義のラディカルさを求めるようなものは
全然関係ない。単に個別の差異がグシャグシャに整合性の取れないまま
扱われてる気がする)。
           ♪
成人してからあんまり思い出す事もなかったし依然として無神論者なのだ
が、信仰告白のメカニスムに関心があり、要は信仰告白しても日常の不合理
は丸ごと持ち越されるのに何で救われたと思えるのか、一度まともにクリスチャン
の人に聞いてみたいのだが(オウムで問題になったイニシエーションは薬物使った
洗脳だった気がして、そうじゃなく単に形式的な告白だけで救われるというのも
何かローテクな気がするのだが。慣習として板についてる場合は別なのだろうけ
れども)。→中世とかのキリスト者が信仰に目覚めるのは、やっぱり
ある種の非日常的な状態に精神が置かれるからで、それ以外近世でキリスト教の信仰
が告白によって永続的に支えられる契機って何なのだろうといつも思ってしまう。
トリニティが単に絵的に好きで平和な感じ。
エホバや仏教系カルトの人には悪いんだけれどもやっぱり人の生活に踏み込むの
邪教のような気がするのだが。
「教会は本心まではさばかない」(De intimis ecclesia non judicat)
これ割とまともでリベラルな気がしており、新興宗教がみんな端的に気持ち悪いのは
本心をどう固定しどう機械的に断じようとしてるか、情報開示されてないからと思う。
              ♪
「うわさの遠近法」を読みかけてあんまり興味ぶかいのでかえって本読み飛ばせる
という考えを(1ヶ月半くらい)捨てようという気がする。その上でもう少し整合性を
取って読むという事をすべきかと。
 ベンヤミンショーレムの往復書簡の読みとばしを何か良くなかった気がするため。        ♪
拉致被害者のデータ開示って結構まともでましな事態だという気になる。