この世に長靴があってよかった

と思いながら歩く。只のレインシューズも買わねば(フルラのレインシューズを買った後1年履き潰す。安くていいので軽くて冷たくならないものを)こんな日に成人式はすごく大変。 ♪
歩きつつ場所の確定が難しくなる事を(歩く事のうちに)感じながら。普段全く使わなくてよい感覚の為気分転換にはなるのだが、寒いわ景色が単調だわで凄く嫌な気分になって来る。
歩きながら考えるべき事かよく分からないが、ドゥルーズメラニー・クラインの事を。

ドゥルーズの哲学に恐らく生体一般や生物論的な素材にかかる妥当性はなく(文学や哲学の成り行きとしてはなくて一向に構わず)、やっぱり哲学者なのではないかという事を繰り返し思う。あると考えなければいけないとすると、それは端的に現代思想市場というものの要請で、要は毛色の違うドゥルージアンに科学的妥当性があるかのようなエピソードを上積みするための方便であり、そういう動機からして過度に(ドゥルーズの意図に反して)神経症的なのではないかと。
恐らくリテラルには「管理社会について」で言ったような事を考察したドゥルーズは、自分の哲学に生体工学的な発見の優越性(超越性?)や、ましてそれを支配的なカルトが偏執狂的に追及するような契機が埋め込まれる事を望まなかっただろうという気がする。でも日本では端的に懐事情からそうなっているに過ぎないのではないかと。何となく、素材感は挫折した精神分析的契機とか、分裂症的抑欝体勢の抜けの悪さみたいなものにすりかわってくる。
凄くざっくりした整理にはなってしまうが、もと全共闘のクリエイターとか左翼性みたいなものって、何か全面的にそういう分裂症的抑欝体勢みたいな感覚に滞留してる人が多いように思う(年齢とオウムみたいな事件を牽引した前歴にもよるのか)。その状態で筋違いに他人を希求する癖、痛み分けみたいに後ろ暗さ(犯罪?)を共有しないと、自分の子供位若い人間に一切金も立場も自由も認められない、というのが言いたい事の全部なのだろうか。

糸井重里みたいな変質者の行動が自分の中で問題になってるのも、やっぱり全体的にそういう分裂症的抑欝体勢みたいなムードを感じるからであり、それは本来糸井をクリエイティブだとも何とも思わない人間にぶつけるべきじゃないと思う。「ほぼ日」でものつくりめいた事してるクリエイターは単に糸井重里という人がそこそこ有名人なので、そういう事(糸井重里という人の病理の隠蔽に、ごちゃごちゃした雑貨が使われてるに過ぎないという事)に無頓着なのだろうが。 本当に行為障害の性質としては田代まさしとかと同等に見ている為、今後も異常な事があったらすぐ指摘しようと思うのだが、私としてはこの人を許容してる女のクリエイターというのも謎で、整形中毒とか覗きとか色んな依存性と生活産業みたいなものが同等にあることに矛盾を感じないんだろうか。

覗きで学会員、というジャンルの人にカサに着られるのは嫌であり、それを許容する女性と同等に扱われても困るというか、何かもう少し一切宗教にコミットしてない人間の価値を押し上げた方が良いように思う(というか大半はそうなのだが)。九十五年の事件の時に、信者の女性が変な服装で気持ちの悪い教祖につき従うのを見て、こういうのすごいダメと思った人は多いはずであり、それなのにそれとあまり変わらない宗派に恩義を誓えば関係ない人間を長年ストーカーしていても咎められないというのは、明らかにおかしい気がする。

万策尽きるというかいよいよ困ると、何か符丁みたいに「そうか〜」って言う癖があるみたいで、悪いけど何なのよというか何考えてるかさっぱり分からないのと、あと何故かその宗派の方って異様に餅が好きというか(幹部にそういう人が居るのだろうか)、全然餅と関係ないもの(生き物とか)まで比喩でもち呼ばわりしてる事があるように思う(あともち米原料じゃないだろうという物に「もちもち」ってつけるとか)そういう信者の方の特徴は折り合えないものばかりじゃないのだが、絶対入信したくないというのと、基本的には何だか全く解んないというのを理解して欲しいのだが。
どっちにしろプロテスタントよりで無神論という自分のスタンスからすると真逆だし、新興宗教の信者は同じ宗派の異性を嫌いながら共有するみたいな倒錯したとこがあって、たまたま芸能人だからというので恣意的に人を同じ構造に絡め取れると思われるのもキモい。悪いけど共用物の方へ行けよと思う。