考えてみれば/肉への慈愛

バブル前かその時分に、ドゥルーズ分裂病的である事を市場化してきたクリエイターというものがあるとして、それが市場の後ろ立て無くして作るものや本が売れなくなれば、分裂症的抑欝体勢(精神分析的機構を使って他人を筋違いに統制しようとする)みたいになるのは当然の事なのかもねと。あまりの単純な屑らしさに失笑するが。
まずその団体の教祖が逝去してるかどうか分からないというのに怪訝さを感じるし、グラフ雑誌のセンスもやっぱり北朝鮮のようだと思う。よくわからない、というよりこれ勘弁してという感じか。

ベンヤミンを読む上で、ファシスト的な機構とか統制の手段について具体的な事を分かりたいと思っていた時期があったが、仏教系カルトまさにそんな感じであり、実際何人も自殺に追い込んでいるのだとすれば、核になってる手口についてはしっかり検証する必要があるように思う。

「愛の悪魔」を映画館で見たときに何となく後頭部が痛くなり、それ自体はいいとか悪いとか全くないのだが、今見るとフランシス・ベーコンはゲイであり(ゲイだからどうというのは特に思い浮かばないのだが)、50年代に生計たてる為に家具のデザインをしていた、何かそういうのが凄く腑に落ちる。アトリエの写真を見るとめちゃくちゃで、そういうのが狂人としての創造性なんだとすれば(内的かつ個人的にそうなるという事なら)、やっぱり洗脳や支配的なカルトの陰謀のようなものがあって個人がそれに囚われ得るというのは、狂気でもなんでもなくありふれて、つまらないことであり、陰謀でなくそうなのじゃないかと(だから本当はもっと詳細な記録を残せるはずなのだ)。
それについて現代思想としてパッケージ化されてない、現代美術に対するカテゴリ化というものでも決してないような、まともな検証がどうしたら成り立つのかほんと考える。というより、洗脳で感覚が変容したりそれが三権分立を踏み越えて他人を脅かしてるカルトの手法だとすると、その団体におもねて収入源にするより先に、忌憚がなく本当の事を記録すべきという気がする。

ヘーゲル的な、媒介物の消去による感覚だけの変容みたいな事やトリプティクの訳の分からない教皇も何か気持ち悪いのだが(比べてもなんだがベーコンよりジャコメッティの方が感覚に合う気がする)、その五千倍位、死んでるか生きてるか分からない教祖を擁立してるカルトの専横の方が気分悪い。