精神分析的素材

旅行に行った先で見なかったルシアン・フロイドという画家の事をぼんやり考える(フロイトの親戚だからという訳でなく重苦しかったからだが)。
挫折した精神分析的素材というのは結構ありふれたものかも知れず、でも本来個人の心理的なエネルギーと等価交換なんかされないんじゃないかと思うのだが。分析家でもないのに面白く、俄然張り切り、なんだかんだ言って私こういうの(考えとして)手練れてると。

何の気なしに「愛の悪魔」の劇場公開年を見て、え、九十九年かと愕然とする。未だに渋谷の映画館でどっぷりシートに座り込んでいた時の感覚が思い出される。心身がスカスカでアトリエに入った泥棒と同棲したあと泥棒の方がノイローゼで自殺するという話をひたすら愕然と見てたのだが。一瞬だけ色んな(性的ですらない)アンビバレンツな感じが時空に解放された時期があった気がして、その頃ここまで科学とか教化が問題になってなかったような気がするのだが、何時から漫画みたいな科学者とか訳の分からない宗派が心身に対する前提を変えるみたいな話になったのか本当に訝しむ。

要は洗脳や思考の盗聴があっても、社会がリアリティを弾力的に運用してそんな事による個人の磨耗を一切認めなければ嫌な気分にならないで済むんだろうが、洗脳する側は入信させるとか自殺に追い込むとか目的があるのだろうし、それは目的に向かって不可逆的なものなのか、オペレーションを発動してる側にもよくわからないのだろうという気がする。
差異もそうだが、そんなこともう少しきめこまやかに考えられないものかと。

電車に乗りながら、私結局ドゥルージアンではなく差異と反復がいつも問題になっているだけなんじゃないかと思うものの、そういえば娘さんが映画監督なのよね、と思い、検索した「新しい肌」があまりにも面白そうなので見てみたい(見ればよかった)という気に。30のプログラマー職業訓練を受けて建築の現場監督になる話みたいで、そういう事はざらに(世界の色んな所に)あるんじゃないかと思うのと、仕事しながらドゥルーズを読んで何が悪いのという気に。80年代と同じようにドゥルーズ現代思想のスターにならないといけないとか、スキゾがどうとか(教え込まされたように)問題になる方がよっぽど異質なのではないかと思うのだが。

という事は恐らく16、7年前からそうなのだが、未だに問題になるのは「昭和軽薄体」だったりして気分悪く、今居る現実の析出より昔のクリエイターの脱法行為の方が尊重されるのがよい事とは到底思えないので、やっぱり私有財産をそのまま復興事業とか電機メーカーの再建に充てられないのかと思う。