直感的に

私小劇団的なものとかアングラがとことんダメという気に。(それを直感する事で自分の感覚のカテゴリから遠いものを捨てようとしている)

仕事の資料をぱらぱら見つつ、やっぱり定期的に(特にキッチンの)カタログの仕様をチェックしないといけないなというような事を。

(多分ドゥルーズ自身はそこまでそんなじゃなかったと思うのだが)ドゥルーズ主義と薬物中毒と自殺の暗いインターナルな結び付きに大変な違和感があると共に、やっぱり仏教系カルトはドゥルーズと関係性皆無と思う。それを指摘しても傷つくのは私じゃないのでどうでもいい(書くことも不要)のだが、どうもそういうアマルガムが色んなものを不当に巻き込んでいる気がする。

ガタリカフカについて書いた本の冒頭で、ドゥルーズだけのスター化みたいな事が書かれていたので世界的にそういう傾向があるのかも知れないが(ジジェクとかははっきり哲学者としてまともなのはドゥルーズガタリが意味不明だみたいな事を書いていた)、そういう読み方一度もしてないだろうなという事をひたすら自問しつつ。確かに出来事の過剰とかそれに伴う欲動みたいなものを辿ると華々しいが、とはいえ出来事は完全に情報や事件ではないので、その事を念頭に置かず読むとドゥルーズケータイ小説化みたいな変な感じにならないかという気がする。

(凄く俗っぽいようで困惑するが)もしすんごく嫌われもののドゥルーズ主義者というものが居り、その理由が行為障害と支離滅裂な言動にあるといった場合に、もしニアミスしてたとしてもそいつと私は一切無関係という気に。仮に支配下に置くため(?)生活に介入されたとしてもやはり無関係を貫く他ない。というより、ドゥルーズ主義が高じて他人に薬物投与するとか、他人を生きながら解剖するみたいな行動を取ろうとしてる人が居たら、単なる極東の病気の人だと思うのだが。

母子関係の悪さから言動が支離滅裂になるタイプの人が抱えてる闇、みたいなものはあるのだろうが(糸井重里からもそれを感じる)、基本的に苦手なテーマだなあと。滅茶苦茶言っても自分の感覚からしっかり切り離したい。