段違い・部分

階段を階段だと認識するのだけでも充分学習の結果なのだという(認知にとって)考えてみれば当たり前の事をつらつら思いつつ。
それがないと単に段の違う部分が繰り返し繰り返し現れるだけという事になり、その転換以前の(階段を階段として)状態で現実感がつくられていくというのが特異な精神状態かも知れないなと(疲れていてもそうはなるだろうけど)。
ゲシュタルトや認知の問題と心理的な要素の問題はまた別であり、両方とも他人からどうこう言われるようなプロセスではないにもかかわらず、それらをコントロールする技術の(例えば神経工学の)超越があるというのはどういう事か、もう少し情報整理出来ないものかと思う。
情報整理出来なければ大半が心理上の薄っぺらい(俗な)問題にすりかわってしまい、その連続性の果てに何か感覚にとって有意義なものはないのだろうという気がする。

久しぶりにV・Cアンドリュースを読みたいと思いながら。ダイアン・アーバスの映画というのも遥か以前に見損ねた。