花瓶

は全て有用である、、と思わせない花瓶が一つだけ空気と水の境目に置かれていて、透明な媒介物として汲んだ水道の水から茎を通って花びらまでを巡る、息の通り道になっている。その底近くで一羽の小さい鳥が嘴を羽根の間に丸く納めて休んでいる。

お茶を飲む時のスプーンとカップ本体の角度により聳える位切り立った影が出来、それは回り込んで空気に軌道を残している。

道にいたのは調べるとやはり雉のヒヨコから数日経ったものだったみたいだなぁと思う。模様が同じ。
…ベーコンはともかく「花咲く工芸」という展示が素晴らしかったのと、でもベーコンもやはり芸術の強度と感覚を問題にしてた分やっぱり素晴らしいのだというような事を(それが単なる情報でも、生体だけでもない形で人間を描写したという事が。「物質化の現象」という本が気になる)。16年も前にポンピドーセンター展で見た「フランシス・ベーコン、事実の乱暴さについて」というのがどんなフィルムだったか思い出せないが、いっけん超常現象的な素材や資質が芸術のメディウムに転写された時にどう支配的な感覚を逃れ得るかとか、差異を孕んでどう分節されうるかについてもう少し色々考えられたのじゃないかと。

習い性恐ろしくて17位までに読んだものの、特に信仰のフォーマットからは一生逃れられないのかなと。「プラグマティスム」見ながらそう思う。自己規定がやはりプロテスタントなんだろうと。…憑依についてWikipediaの項目を見ると、何故か聖霊は憑依から除外されてるとあり、額面どおりそうなのであれば、別に自己規定がキリスト者でないのに成人する前に聖霊によるパブテスマのパロディのシーンを書いてしまった。
だから呪いとかオカルト的付帯物がいまいち<超常>してくれず、ひたすらイラッと来るし権力欲に塗れてるように思う。実際それは神秘主義的なものじゃなく、「マリオと魔術師」のような苔脅しに思えるのだが。 ♪
ベーコンのレリスの肖像画は素晴らしく、レリスのような人であるならある超常的な素材をもたらす宗派の方法について、個人的なオブセッションと困惑を織り交ぜて現実的に描写出来るだろうと思う。韓国系カルトについても、そんな風に内的に、解明的に言及しないといけないのではないかと、個人的な戒めとして。コロニアリスム的な優越をカルトに対して取るという事はまずなく、俗物性に訴えて居直り続けているのはそれらの方であり、変な儀式にコミットしているのであれば被害を受けた人間で情報を出しあいクリアランスを取らなければいけないように思う、が、そもそも何なんだ、ほんと気持ち悪い、としか言えない。

スタック出来る家具のデザインとスタックしたときの形とサイズのような事を淡々と考える。(花瓶のスタックで上から見ると三歳位の子供が手を繋いでいるような印象、という事)。スタックしながら向きが変わり別の用途がみえるようなもの。

「常識はわれわれの途切れ途切れにあらわれる感覚の間に恒常な「事物」を補挿するが、同じように科学はその第一性質の世界、アトム、エーテル、磁場などを常識の世界の彼方に「外」挿するのである。そこで「事物」は目にも見えず触知も出来ないものとなり、常識の認めるこれまでの目に見える事物は、これら見えないものの混合から出来ていると考えられてくる。あるいは別の言い方をすると、事物についての素朴な全概念が罷免されて、事物とはただ、われわれの感覚のあるものが習慣的に継起したり共存したりするその結合の規則ないし法則を示す名前に他ならないと解釈されてくる」(ウィリアム・ジェイムス「プラグマティズム」)
…こういう一節だけでも、晴天の霹靂みたいに意識の謎を科学的に解明するという命題が現れた訳じゃない事は瞭然としてるし、常識を覆す外挿として科学技術が扱われる場合、どう対象物(例えば個人の意識)にあたるか前もって明示しない事には、科学的にも宗教的にも不誠実だという事が知れるのだが(というより大昔にこういう事が書かれてる以上、科学の外挿についてある種の体系を踏まえていけないんだろうか。踏まえずにいきなり未知の世界に独自の理論で到達しようとするとやっぱりいかがわしく、外挿ならそれを知ろうとする時無駄になるという気がする)。明快なスタンス、まともな文章という事を思う。ウィリアム・ジェイムスは宗教もまともで、別にその宗教観に従っても嫌な感じに凝り固まる事がないのだが(ニュー・サイエンスとかのなんか変な感じとずいぶん違う)、予め科学が洗脳だのオカルトだの薬理に依存する形式とだいぶ異なる。そして、こういう事柄が「意識の流れ」のあのフレームワークと周辺の描写が美しい文章の源泉だった事を思う。
そのなんか変な宗教観が、直覚にどう宗教的越権と科学技術(えせ科学技術も含めて) を与えてるかを明らかにしないとオウムのような事になる訳であり、それを悪用した感覚についての学など全く意味がないというのは、もっと具体的に検証しないといけないのではないか。

平気でカルトの教祖(それも書き割りだか生きてるかも分からない)と対談する茂木のような詐欺師は、恐らくまともに文学作品を読んでなく、単にカルトのフォーマットに従って行動してるだけなのだが、なおさら普通の人間の意識野に係わらせるべきじゃないだろうと思う。引用してて思うがほんとはキリスト教だって充分に変なとこがあり、いい時は宗教に一切縛られてないのだが、まだ教祖が死にかけてないだけまともな気がする。
検証不能な宗教的御託を並べる事より遥かに、文学の形式上の定立を検証する事の方が有意義で前向きな気分になれるように思うのと、悪いけど学会員の女性とはなからそんなものと関わりたくない女性とはっきり区別して欲しいと思う(変なもの口に運ぶ存在として差別して一向に構わない感じというか、レイシストと言われても教祖が死にそうな新興宗教はイヤ。信じるフリも無理だしつくづく気持ち悪い)。なんか生々しく、高利貸しの教祖が亡くなる際に財産分与とかでもめるのだろうなと思うと、全然宗教でも何でもないじゃないのと思う。 ♪
スエードの新曲がラジオで流れたがそのうちOCEAN COLOUR SCENEかからないかなという気がする。今思いだすと一番好きだったような気もするのだが(音質が)。

茂木が朝連続ツイートなどと言って人のブログだけでなく個人的に過ごしている際の内容もばらまく為、神奈川県警に再三陳情したところ、数日ツイッターを止めていたのだが、その間逗子のストーカー事件で何故あんな事になったか痛い位わかった為(実質神奈川県警に殺されたようなもの)、まともに経緯を表に出したいと思う。
50過ぎの男が思春期とか、どういう神経構造をしてるんだろうか。ひたすら数世代ずれてる、薬物と汚物絡みの宗教のシンパの詐欺師を放置している感覚を疑う。
猟奇犯罪者とかとさして変わんない精神構造というかはっきりサイコパスであり、第一嫁とか息子とか外聞どうしてるのかと思うのだが、ストーカー規制法の改正をしっかりしないとこの手の本格的におかしい人間を処罰出来ないのだろうと思う。
前述のNさんとの会話も晒していたが、他人を数年以上監視するという手口自体、異常だしそもそも意識の形式というジャンルと絡んでない。単に茂木健一郎の精神病質の問題だという気がする。
本来なら変質者に警告したり職質するのは警察の仕事だし、それ以上に警察不祥事の異様な多さにびっくり。