立原道造のパースのとおり作られた「ヒヤシンスハウス」を見に。沼を取り囲む公園の敷地内にあるのがよく、深呼吸出来るような感じ。(立原道造本当に素晴らしい。その生前の構想をかたちにするのも素敵)この日記の初めを14行詩として始めたが、自分はおめおめと生き延びて考えているのだなと思う(ベンヤミンの14行詩が、とても率直な哀悼の詩だった事も合わせて思いだす)。ちゃんと14行で完結するという形式が好きに思う。

そんな事到底パラフレーズするように読めてなかったが、「プラグマティスム」に「〜と」でものや繁辞が横並びになることへの戒めのような項目があり、ドゥルーズ=ガタリ唯物論についてムードだけでなく前鞘の考え方があるのだなと思う。そのムードでなさを画定して読む事に比べると、例えば際限なく略取するとかそもそもがマネーロンダリングのようなものは、あんまり(哲学上の)唯物論的と言えない。第一ギャーギャービービー汚らしい(これもヘイトスピーチだが、私は糸井重里からそういう存在論レベルでの汚らしさを感じる)
かといって「退嬰した唯物論」みたいなもの言いはいかにもポストモダン臭い気がするのだが、ポストモダン臭いとか以前に単に気持ちが悪いだけのように感じる。正常人が薬物中毒者や異嗜食者、整形中毒者を気持ち悪く思うのはやっぱり仕方ない事であり、そのレイヤは感覚から切り離す事が難しいように思う。

十四行詩網→ラカンに崩れて→メディアの病跡学→pettal noesisと変遷しており、実際ラカンに言及する事も病跡学に言及する事も出来れば(形式化出来ないのであれば)差し控えたかったという事を。ベンヤミンソネットの形式をギリシャ世界に由来するものとして書いた詩を何となく見つつ(番外編で「中央公園」というのがあった)。
ラカンに崩れたあたりで一旦病院に入るという手もあった気がするのだが、思い付きで免許を取りに行き遠足が楽しくなったためちょっと世界が広がった。それから免停もなく今日に至る気がする。