大したものはいらないなという事を思う(統一するとしたら柳宗理がやっぱりよいなとも)。万事においてそうかも知れない気もするんだが(幅が広い水盤にどんどん流れていく水が、水をそのまま映しているような感じで、そういう水盤が共鳴して幾つか庭先にあるというのは景色として結構落ち着きある気がするが、古い街並みと新しい街並みで入れ子になる特性がある場所だとあまり珍しくもない)。

木のテーブルの継ぎとか器の金で留めるものはやっぱり見とれてしまう(現実に対応物がなくとも頭で思い浮かべたものとして)。ジャコメッティが記憶で何もかもを構築しなおそうとしたという時の、そんな継ぎが確実に現実感の底にはあるという感じ(沈金のような感覚)。

火山灰に石灰質の石に南方の光と植物園、とかブルトンもともと取り扱うものが過度に暑苦しい。でもその事に気付くのに文字がオブジェクティブなものとして(疎通の道具としてでなく)自分の意識に対して一部閉ざされてる必要がある。
極楽鳥花を初めてみたのが子供の頃に飛行機で出掛けて行った八丈島だった事を思い出す(廃材を組んだベンチのようなものと黄八丈という今でも欲しい地味な、味のある着物。止まったホテルからも旅館からも由緒より遥かにいかがわしさを感じていて、同時にそれが好きであるという感じ。大島紬とか素敵に思う) ♪
アスペルガー症候群についても発達障害についても全く詳しくないが、判断基準の改定に伴って症候自体が消失するという話を読みなんて大雑把なのだろうという気に。発達障害について言えば難なく社会に適応してるほうが「精神的には」発達も発展もする余地がないように思えて、名称訝しくそういう名前つける発想の色気なさに倦むような気がする。精神医療界の思惑で新薬を押しつけて実入りを増やすというのは妄想でも陰謀論でも何でもないような気がするのだが。
洗脳の後遺症で外傷的固着があるような場合(そういう漫才師の人を見て)、別に精神病でないように思う。

精神医療の雑駁な判断基準とか即物的な感じは信用に値しなく、フロイトユングも文学者として凄く優れていた事を実感する。そういうものを読めたのは幸せな事だった。