エコカラットを/中沢新一という人の胡散臭さについて

パースに落とし込みしつつ、シミュレータ通りに貼ったことがついぞないという気に。
…銀行もそうだがこの2か月向こうにも1社面接に受かり(就業は見送ったにしても)、
基本的に就活に対する挫折感と無縁にもかかわらずきちがいみたいなものに延々絡まれ
る事の気持ち悪さを思う。ほんとにキモい。全体自分の何が洗脳されなきゃいけないのか
全く意味不明。
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アート系で自分に大本の発想がない場合、男性だと結婚はまず無理だろうし私が婚活の
的にされても困るというような事を思う(仏教系カルトが絶対に異性の承認を受けられない
人間の捨て場というかバッファのようになっている事がわかり、心底ゾッとする。親戚の
結婚式に出なければならないような時に本当に気分悪く、世の中には平穏無事に生活
出来てる人も相当数居るという事が全く分かっていないのが、ひたすらに痛い気がする
のだが)。古谷利裕というゴミのような美術家が完璧にストーカー予備軍の為、県警には周り
の人間の触法行為も含めて通告してある。ごく単純な、単語ひとつさえ自分の実感としては思い浮かべたり書いたりしない、なおかつあんまりそこに美術史上の意義がない、それに加えて人並み感のあることに対して色々と損われすぎてるという事を思う。
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一段落したらエスニック料理の教室にでも通おうかとか思いつつ、ようやっと
心身が恒常性を取り戻しつつあるなという気に。睡眠時間が長い。
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通勤中にまたブルトンを少し読む。何となく季節に合う感じ。


単に食事もそうだがお皿も見てて楽しい。
こんなのをもしお家で作る際に個人的じゃない世界は
凄く気持ち悪いように思う。
もうこれを日記に記載してる人間は自殺なんてあり得ないなという
写真を日記に増やしていくことに。私は最低80まで生きたい。
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行きがかり上、山田花子という漫画家の事と中沢新一という人の(96〜7年位の頃の)
胡散臭さについてそのうち書きたい。
そんなものは(屈託あるいは神秘主義の)何のリファレンスにもならない、という事なのだが。
(だから投影の舞台装置として、そういうものを設えられている人がどれだけ居るかは分らない
のだが、そもそも大間違いなのだという事を)。

山田花子と非言語性LD」という本を、出た年の2001年頃図書館で借りて読んだ。
(ついでに言えば図書館には、つりたくにこという方の作品集もあり、凄くかわいらしく
素敵な漫画なのだが、そういうものを置いてある田舎ではない図書館のデータベースが
参照項目になっている限りにおいて別段病みようがないとしか思わないのだが)。
…考えてみれば「山田花子と非言語性LD」はパトグラフィーの本であり、新感覚派周辺と夏目漱石太宰治とか
芥川龍之介が定型的に出てきて飛んで西丸四方さんが草間弥生さんを分析している…という
感じが自分の知るパトグラフィーだったため、今思うと斬新な本だったかも知れないのだが、統合失調(精神
分裂病)と自閉症スペクトラム周辺の病理のフォーカスとか診断にきな臭いものを感じる。何だかよく分らない、
という気がする。今回の「アスペルガー症候群」の消失もそうなのだが、あからさまに他人に迷惑をかけるような
行動化を伴わない限り、精神的な病気について色々という必要はないし判断基準そのものがいい加減なのではないか

山田花子という人の漫画は読んでいて凄く嫌な気分になるものだし、こんな事(人間は弱肉強食だとか根源で悪意を
持て余していて動物みたいに捕食しあってるとか)ばかり考えていたら、確かに分裂病になってしまうでしょうよと
いう気がする。そして、実際に山田花子という人が周囲に対して取った態度というのは、そういう根源性が社会性
の上にスプレッドされてしまった結果の混乱というか、被害妄想みたいな態度だったのではないかと思うのだが、
そこにガロという変な漫画雑誌の閉鎖性とか歪んだ人間関係が無かったかと言えば、よく知らないけどそういう雑誌
なのかも知れないという気がする。
問題なのは、そういう実存感覚が問題になっていたのは90年代っぽい流れの中での事で、今2013年にもかかわらず
相変わらず芸術だの文学だのをこねてる人が、そういう混乱で他人が潰れてくれないと困るという点なのだ。
他人が不幸になったり何か背負い込まないと芸術的営為が成立しないというのは、全く理解出来ない感覚で
そのような事は一切ない(ブランクーシの作品もパウル・クレーブルトンもそんな事は一言も書いてない)。
その釈然としない感じは、団塊の世代の一部の人が未だにノルウェイの森の直子みたいなメンヘラっぽい女が
好きで、単に感化する為にねちねち攻撃するのと似ている。適当なところで制止して関わらないようにしないと
いけないと思うのだが。それで、分裂病にも言える事なのだが、病まされる人間より周到にそういう環境を敷いて
他人を攻撃する方が、300倍位どうかしてるように思う。
更にぞっとするのは、そういう手口がある時期完全に分子生命学だの脳科学だのに取り込まれて、おかしいのに
大義を立てて正当化されてる事なのだ。