華麗なるギャツビー

を、どうしようか思案しながら、2009年に人とベンジャミン’バトンを見た際に、見終わるまで全くフィッツジェラルドの話だとわからなく、大変いい話だったのだけれどフィッツジェラルド自体が何と無くあまり好きじゃないのだという事も思い出す。
嵐が丘をものすごい大傑作で好きな話だ、というスティーヴ・エリクソンのその偉さとか結局内省的な夢の方が本質なのだという感じに比べると、比べても仕方ないけど落ち着かない話に思えて。華麗なるギャツビーも嫌いだった。華麗で。リッツホテルと同じ大きさのダイヤモンドの話しか思い出さない)。スティーヴ’エリクソンとオースターの大流行(は私の中でだけの事だったかもしれないが)の感覚に比べると神経工学だの脳だのの空論はすごい醜い。それに依存して他人からの盗用で出版される小説はもっと醜い。で何で80年代かほんとに分からない。
もらったカンディハウスのチラシを見ながらどうしようかなぁ、見に行こうかなぁと暫く思い悩む。

糸井重里が気持ち悪いのもそうなのだが、「息は、ほぼ顔」とか言うコピーも全く意味不明であり、ある種の媒体の私物化みたいなものが全然輝かしさも理想的な風合いも含まず、ひたすらどんくさくて気持ち悪いと思う。そしてそういうものに毒されたくないので、家で考え事するような時は個人で居たいし私的な感覚を放棄したくないという、自分のどこがおかしいのか全く理解できない。

成金というかお金持ってても豪奢でかつシニカルだと文学的な
意味も意義もある気がするのだが、ひたすら精神的なものまで
物品と金銭に還元し、社会的に
意義のある活動に還元する訳でもなんでもなく、第一蓄財のもとに
なった行動が新興宗教の財源に取り付いて多分持ち出しの多い
末端の信者さんから搾取していて、なおかつ女性を家畜扱いとか
脳科学の怪しげな理論を振りかざして煙に巻くとか、とにかく
意味不明に醜いしそういう人間に絡まれても自律神経失調症
にはなるかも知れないが統合失調症にはならないと思うのだが。
本当におぞましい老害に迷惑をかけ倒されるのなんてあり得ない
し、60代でこれから老齢になる前に自分がどれだけ空虚で気持ち
の悪い存在だったか、ちゃんと認識させるべきだと思う。