美味しそう

http://www.nbkk.co.jp/recipe/genre/main/post-399.php
以前作ったサーモンのテリーヌはまあまあ美味しかった。

振り返ると自分はほんとに料理が嫌いじゃないな、他の家事も
別段嫌いじゃないと思うのだがいろいろもやもやと思うことが
あり不快に。
・・・内田樹先生の粘着が治らず、とりあえず早々の死を願う他ないやと思ったにしてもはっきりこんな奴が仏文科の教授でどうしてるんだろうと思う。何か単に食品のラベル程度のものを読もうと思ってもいきなりカミュだの1969年がどうだったのドヤ顔で語りそうであり、日本語の発想段階では完全に80年代で、尚且つ何でも間の
抜けた転移共同体仕立てにしないとすまないというタイプの気持ち悪い全共闘ちょっと下とかって流石に居ない。少なくとも自分の
縁者親類はそうじゃない事に安心すると共に、やっぱりはっきり
日本の害毒なんだという事を公的に明らかにした方がよいんじゃないかとも思う。あんまり生きててモラハラがどうのとか感じない
にせよこいつのパターナリスムだけははっきりモラハラなんじゃ
ないかと言う気がする。(成城石井で30パーセントオフのスモークサーモンを買った瞬間、Twitterに似たような事を書き込まれたり
そば食べたら真似するとか、単なる人格障害者じゃないのかと
思うのだが〕
・・・別段フェミニストでも何でもないにしても、以前「オニババ化する女性」がどうとか言う本のタイトルを見て、こういうのやだわ〜と思った事を思い出す。要は結構女性的に結婚して子供産んでみたいな人生の、着物着てる生臭めの保守女性で外堀を埋めて、
もう少し精神的に奔放で囚われない感じの女性に対する劣等感情
みたいなものを緩和してるに過ぎないんじゃないかと思ったのだが。
大変嫌な勘ぐりだがこの方の自殺された縁者の方って、多分そういうオーソドックスな女性じゃないからちょっとずつ陰湿な形で
外されたんじゃないかという気もし、何かすべてに渡って
やっぱり韓国系カルトの教祖が一番近い感覚なのじゃないかという気がする。
一応立案から文書作成から何から自分の問題として行っていたであろう普通の戦後思想家と比べると(思想家はやっぱり自分の考えがあって、お弟子さんのようなものはいるかもしれないけど基本的にアシスタントに文章書かせたりはしない気がする)、茂木健一郎にしてもこいつにしても覗き癖のある思想史上最悪の存在という気に。そういう人の本に比べて谷川健一の本とかツェランとか購入しにくいのは、なんだか凄く理不尽に思う。
80年代でないにも関わらず80年代的な売れ方をする、とい別にアートとも文学とも関係ないし、偉くも凄くもないのだが、それで無理に共用させようとしている文脈が、まともな個人の記憶とか生活を圧迫するようなものならどうにかレジストする必要があり、それは一切「革命」とか「反体制」と関係ないし、
第一脳だの身体所作が組み込まれちゃうのだとしたら気持ち悪すぎるでしょという事を考えるのだが、、、


今地味に「オドラデク=リリヤンの道具説」が浮かんだが全く分からない。(糸巻きでも不恰好な紐しか編めないのはカフカ的に思うが)
カフカの年代は変な民間伝承的な手芸史からすると全く近代の
ような気がして、多分海外のリリアンの道具(初めてちゃんと
写真を見た)は存在していただろうという気がする。
そして星型に糸を張ったところに棒を交差させるし、どうでもいいような糸くずとか切れ端を巻きつけて際限なくアホみっともない芋虫みたいな紐をぐだぐだ編むという技法もあんまり変わらない気がするのだけれどもどうなのか。
あの編み機しか使えないと家事能力は異常に低くて、半端な糸を
更に半端にリメイクする力しかない訳で、カフカが持っていた
家父長制的なものに対するコンプレックスとよく合うような気も
するけどどうなんだろう。盗用してもいいから教えて
欲しい。
気になって調べてみるとリリアンはやっぱりちぐはぐな色の糸を数色組み合わせて編むというのが(あくまでも画像検索の結果だけでも)オーソドックスみたいで、そういうそそくさした感じがカフカ
っぽいのと同時に誰かが持っていたものを勝手にオドラデクと呼んだのではないかという気がするのだが。

こんなに生真面目に「表象」の書店限定販促を何にすべきか
考えた事はなかった。(オドラデクがついてたらみんな買う気が
したのだが)マンドラゴラの煎じたものとかどうか。