芸術の形式論

として、ベンヤミンロマン主義において反省と自己制限がいかに大切だったか書く。当然形式を立ち上げるには当たり前のように思うのだが、まともな批評的センスがある文章を読んでるとこのことは必ず書いてあるし、逆を返すと自己制限抜きで他人の言説を流して盗用してるような批評はバカでなおかつすごい低いとこからの不気味な僭越に思える。そういうものに論じられたら小説を書くことの意味は消失するだろうし、形式に意味を見いだせないパースペクティヴのだらしなさが飛び火するだけに思うのだが、そういう眼高手低のえせ批評を野放しにする程、日本文学もアートも建築も下らなくなかった気がする。
人間の心身のパラメーターを一度に誤作動させるような技術を「使わない」のが医者や武道家なのだと思うし、芸術家や小説家はそういうパラメトリカルな在り方のお勉強(それも現代思想臭い)に意味も意義も見出ださない。

人間の心身を誤作動させるような技術を使わないのがまともと書いてくだらねーと思う。そんなの瞬時に分かるというか誤作動しに行く人はいなかった気がする。怪我したり溺れたりしてしまう訳で、文系のバイアスのある身体技法とかつくづく怪しい。中井正一だけ怪しくない。

田中英光の小説の事をつらつら思いつつ。いい加減にゆるく鍛練したいがスポーツの指南とか心理的ななんかの指導とか身体技法を受けるのはイヤだ! 断る! と言わなきゃいけない文学的な系譜というのが恐らくある。不均衡な(精神的バランスのおかしい)マスキュリニティというか。