諸々

手続がつつがなく進みよかったよかったという気もしつつ。
渋沢龍彦の時代」を読み進める。渋沢龍彦が単に情報だけをコレクティブに扱って自家中毒に陥り、そのまま犯罪おかすようなタイプのオタクと違い如何に本物の碩学だったかを書くという本なのだが、とてもいい本。今となってはあんまり実感湧かないのだが(というか対世間というか普通に生活してる人ははなからそんな事問題にしてなかっただろうが)、この本の書かれたサリン事件の前でオタクが変な犯罪をおかしてた時期に、現代思想市場に「いつまでもひねたマイナーな感性が売り物になると思わず大人になれ」というお話の流れがあって、実際そういう流れの一部にナショナリスムがあったのだった(主体として責任とるにはナショナリスムが一番分かりやすいので)。渋沢龍彦はもう亡くなってたが九十ニ、三年頃まで実際にブームの余波みたいなものがあったのだろうし(河出書房新社から出てる文庫の)、探せば渋沢全部出てくるはずなのだが、読めば確かに只のオタクというかコレクターと違って物知りで尚且つ渋沢が翻訳しなかったら読めてないようなシュルレアリスムのテクストってたくさんあるのだな、凄いなぁという気分になる。そして渋沢のエッセーなり小説の視覚的優越というのは凄い。
そうじゃなくて些末事にこだわって粘着しながら情報収集してるオタクみたいなものが居て、壮絶に気持ち悪いのはそういうタイプなんじゃないかと思う(しかも完全に八十年代九十年代の相対的にはどうでもよさすぎる現代思想みたいなものの些末なデータを、ごそっと提示したりする)。 読みながら八十年代の文化人って結構色々居たんだなぁと思うのだが、それこそ全員が全員歪んでておかしい感じのオタクとかストーカー体質者じゃない気がするし、そんな状態のまま芸能界なりクリエイターなりという肩書きにこだわってるのなんか数名しか居ない気がするのだが、なおさらどうにかすべきなんじゃないのという気になる。時代遅れだからおかしいという事でなく、他人を害しながらしか存在出来ないのは単にそういうタイプの人間としておかしいだけの話だと思うのだが。
へんな話泉麻人とか田中康夫とか玉村豊男とかそういう人は、それこそ他人のストーカーしたり情報収集をしたりするほど暇でも悪趣味でもないような気がするのだが、そういう事する八十年代の文化人みたいなものがほんとずれた感じで存在し続けてるのにどう対処すべきなのか(実害があれば尚のこと)。なんかまともな人と比べた時に明らかにいらないジャンルの人間じゃないと思う。生活産業どころか普通に存在されるだけで邪魔で迷惑なのでは、と思う。

仕事の資料収集をしつつ色々と。