なかなか

渋沢龍彦の時代」を読みすすめるというよりこんな困惑しながら再読すると思わなかった気がする。そして渋沢龍彦を読むときに同時に「遊びの博物誌」という本が好きで、その時はそんな風に考えなかったけどコレクションの圧倒的な男性優位性とか窃視的な立場とかぜんぜん信用していない気に(だから今となってはカイヨワがちゃんと読んだら一番面白そうに思うしやっぱりベンヤミン好きなのは審美的じゃなくて、否応なしになんだろうけど内省的だったからだなという気に)。
かといって男性の視覚の優位性とかコレクションへの拘泥とか完璧に断念させる訳にはいかないんだろうが(世間的に視覚優位で考えてるのが男なんだと言われた場合に、迷惑さえかかんなければその事自体はそうなのだろうと思うが、問題はまともな感覚があったらコレクション的な視覚化の対象にしないだろうという事項、遺伝情報とか思考とか心身の些細なリアクションを視覚的に取り扱うスタンス)、渋沢龍彦みたいに高度成長期に女性の消費的な欲求を充足させる形でコレクションを提示出来た人と、オタクとか犯罪者とか人の事コントロールしようとする変な業界人の窃視的感覚は違う(少なくともクリエイターとして仕事するんであれば先達の渋沢龍彦を見習って只の病的な猟奇犯罪者とかとは一線を画そう)というのがこの本の趣旨でもあって、出版されて20年なのに生々しい実感があるというのも凄い話だなと思う。

グズで病的な中年以降の癖に(新人類としてデビュー出来なかったという分かりにくいルサンチマン)、2次元(?)とかたかりの対象、相対的にコントロールしやすそうな女子供に居丈高という寒い存在の事を思う。進歩史観的な科学とも医学の臨床とも無縁で、振りかざすのはオカルトとかどうとでも言える事(地球外生命だの)のみ。痛い。
トカゲとか蛇人間が居るかしらないのだがトカゲや蛇が可哀想に思う。そして憑依とか呪いとか伝統神学に比べて訳わかんなく朦朧としている。(カイヨワにSFは話半分だというのはあった)
そういう話にまつわる本物というのは在る、けれどサラ・ブライトマンと同じでとても素敵で一切お仕着せとしてそういう事を感得されているのではないんだろうなという気に。