大した料理

がないが、ダイジェストすると結構あるなという気になる(例えば食パンにハム乗せてマヨネーズで土手を作って、そのまま卵割って塩胡椒してオーブンで焼いても料理じゃないが一食昼代浮く)
電子レンジ圧力鍋でそういうしょうもないのが解消出来る気に。というか外食代本当に勿体ない(特に朝夕は)。
別に手抜きじゃないけどアドボとかとり手羽煮凝りも圧力鍋使うと簡単な気がする。

手羽煮凝りは覚えやすい分量があり、手羽先一本に対し水カップ1で塩とお酒を小さじ1ずつ入れるのだが(手羽6本位)、その後水が3分の1まで煮込むのが結構大変なので楽なのだがあまり作る機会がなかった(これで冷蔵庫に入れて手羽を切って枝豆とポン酢で食べる)。手羽2、3本で圧力鍋で時短出来るのか、、


ある人がとても気持ち悪い時に、「レプティリアンが憑依してるから気持ち悪い」と考えるのは、その人の単に人としての気持ち悪さに対して容赦がある為
あんまり認められない。「レプティリアンが憑依してるから気持ち悪いが、人としても十分気持ち悪く、人としての気持ち悪さが爬虫類人としての気持ち悪さ
をはるかに上回る」というべきなのではないかと淡々と。まず人としての気持ち悪さを唯名論的に画定記述してから、外宇宙生命とか爬虫類的な儀式で粉飾
してる分の気持ち悪さを、ちゃんと民俗学とか参照して内実を明らかにするべきなのだと思う(まず人としての気持ち悪さがあり、それはこれこれこういう
性質のものなのだが、その人としての気持ち悪さに飽き足らず宇宙人をおびき寄せたり生き血をすすったりした、と)。陰謀論もそうなのだが小学校低学年程度でクラス内で流行したら明らかに不健康なので社会問題化するような出来事があり、憑依とかオカルトとか全部そうなのでさすがに今も昔もそんなの同じだと思いたいのだが、いい大人の方がおかしい感じの陰謀論とかを客観的に捉えるのもやり過ごすのも困難だという事を不気味に思う。

     ♪
ふつうの人は単に料理を時短するにどうすればいいかとか、そういう事に関心があるのだと思うのだが…

クリスタ・ヴォルフの小説にR複合体について書いてある箇所があり、だから人間の脳なり身体的な与件に外から圧力をかけたり薬物投与したりすれば当然、人間が蛇とか爬虫類に見える事はあるのではという気がする。が、そんなもの子供がコックリさんをしていたらまともな親は止めるのと同じで、単に人として生きる時間がすり減るので滞留するに値しない領域なんじゃないのかという気がする(陰謀論全般のディメンションが)。

渋沢龍彦は多分というか確実に、女性を含めた生き物全般に執着が希薄だったから「少女コレクション序説」みたいな事を書いても何キモいとならなかったのだろうし、他にも様々執着というものと無縁だったのだろうと高齢ストーカー激増のニュースを見ながら思う。別に執着がある事自体は人として仕方ないのかも知れないが、それでかなり生活の構成要素が違う世代を完璧にコントロール出来ると思い込むのはどうかと思うというか、醜悪の極み。二三十代の女性につきまとう老人の件に心底ぞぉっとするし、日本だけ何でカルトに対して緩いのか。
というより、今さらながら渋沢龍彦のセンスの良さというか、パイオニアとして独立した形式と具体的な質感のある文章を残された凄さが感じられ、感慨深い気持ちに。ブルトンフロイトも奇想とか修辞として捉えるのに何となく違和感があって(けれどその違和感が何か完全には分からなくて)、段々読まなくなってしまったのだが、「いくらオカルトとか神秘主義を取り扱っても信仰の対象では到底なくて単にブッキッシュな意味で面白いから」というのは凄くラディカルでいさぎよい態度だと思う。それに対して精神分析や憑依を含めたオカルト、擬似科学や審美があるレイヤで確実に本気で信じ込まされていて他害的に構成されてる思想を何か変で重いもののように感じる。

変で重いというか信教の自由とかないのかというのとほんと完璧カルト過ぎで気持ち悪い。全員他人に迷惑掛けないよう精神鑑定受けて貰う訳にはいかないのかと思う。

渋沢龍彦の時代」にある精神の健康だが、育ちが良くてコレクターではなかったというのは確かにどんなエキセントリックな事書いてもある種の明晰さと生き生きした感じが保てるのねと思う。
それに引き換えはなから仏教系カルトだといろんな環境が壊滅してるのだが(畜生と夫婦という「設定」とか)。普通そんな発想にならないんじゃないかというのが何とも気持ち悪い。
品のない整形のおばさん女優とか意味不明のクリエイターとか、その宗派の中で完結して一切他の社会に迷惑掛けないでよと思う。