ただに

…「生命現象」じゃ困るのでキリスト教道徳かあるというのは生々しく具体的な出来事で(道徳意識に関わらず)、今もそこそこ永続性かあってひょっとしたらそこ否定したら結構広範囲の出来事と地政的条件を改竄しなきゃいけないのではという気に。 信仰でなく便宜上
バランスを取るためのゼロ記号。。を取り掛かりに進化するというのはニューサイエンスにも妥当で、キリスト教も同じなよくある
考え方の気がするのだが、あまり方策もないままグダグダ愚にもつかない(第一気持ち悪い)8,90年代がどうとかいう話の異常性に滞留出来る神経がオーソドックスに全く理解できない。何の妥当性もない、普遍性もない話を(しかもその普遍性のなさって幾つかの
哲学なりなんなりのテクストを引き合いに出して取り扱い説明書を読むように説明出来てしまう)、よく30年続けられるなと。ポストモダンかポスト'ポストモダンか知らないが無限後退に養分を与えてるのが新興宗教となると、うっわ無理、と思う。

微妙に差異と反復が一番性に合う、内在的な理由を思い返す。大体(これは近年)ティヤール・ド・シャルダンがひょっとしたら全集読んでいいと思う程分かりやすかった。


仕事をしつつ、分子生命論を引き合いに出さなくとも常識的に
身体によいものや栄養って結構わかってる筈なのだというような事を思う。

ほんの数年前に、ルー・リードが何の眷属かについて宇宙一確からしいお話を伺い、とてもいい話だと
思ったことを思い出した。表面的な所在と本質的に違うかわいくてリリカルな話。服装倒錯者がすね毛
を抜きながらヒッチハイクするのもボディイメージが傷んだゲイが憂鬱なのもproper placeが見つからな
くて神頼みもすごく可哀そうなのだが、たまにあるラジオ体操みたいな感じが好き。
     ♪
科学理論でなくオカルトでさえなく、破壊的カルトが養分を与える無限後退というものがあればそれはちゃんと定義して罰則の対象にした
方が気分のよい世の中になる、ということをひとしきり思う(文系とか理系とか関係ない)。
某宗派の人が得意とする「そうかっ」だのなんだのという気味悪い合いの手が絶対無理。しかもやっぱりルー・リードとかと比べると、この手の合いの手
で申し合わせ事項を作ってる人って40代位からでもムードが爺婆で気持ち悪いのだ。邪魔で全身総毛立つくらい不快。
あれを受け入れられる人を同じ人間だと思うのも絶対にイヤな位苦手。しまいにはそれと「カレー」とか「目力」とかどうでもいい間欠的な事しか言わないので、
何お前と思ってしまう(ほんとに「何お前??」という感じなのだが)