付置と持続、強度について

自分のなかに何かアイデアが残っていればよいと思う
感覚して言葉に表す時、その濃淡の差異やパラメータで
人間が見えてしまうという事があれば悲喜劇的だが、
抽象的な感覚の中ではそうとしか過ごしていないような気も。
その上で自分を取り囲む環境には(よい記憶を形成したものには)
超越的な態度をとらず好意的、可動的な態度を取ること
居心地の良さが追求できるとしたらそんな風に過ごせる時か
やはりドゥルーズが念頭にあり、ベンヤミンと共にシャトレ哲学史を読んでみるのが良かった

http://recoveryversion.jp/read_List.php?f_BookNo=40&f_ChapterNo=1
受難に満ちたキリストという人の生誕はマタイの1番最初のところで系図というかたちでFIXされていて、キリストという青年のぼやっとした主観だけが自分を神だと指し示した訳では全くない。それが汚物っぽいカルトと違うところ。旧約も含めて外在性と人神というテーマに貫かれてる(人神と神人の違いはドストエフスキーも書くが)。恣意的に解釈する必要はない。寒いし何かキモい朝。ゾクゾクする。(クリスマス必ず出てくるくだりだし外在性と人のテーマは小説の主観、客観の切り替えにも影響大きいはずで、そのところ雑な一元化しか引き当てられない成金が文学についてあれこれ言う必要はないのじゃないか)

ヒモや機能不全家庭出身者特有の宗教解釈というのは絶対に
あるなという気がする。