微妙に

靴擦れするので長靴の買い替えを検討するが、
トリミングが感じいいのなかなかなさそうだなと
思う。奇矯じゃない程度のストライプなんてもっと
なさそう

まだ年明けてすぐという感じだなと思う
全身にかかる圧というか高負荷のようなもの、
どうにかしなければという思い。
具体物とか具体化という事を考えているうちに、
でもそんなに考えつめる事じゃない気もし、
本来だったらとろとろ散歩でもしてれば過ぎて
いく不吉さのようにも思う。
はつらつというか少しずつは気分良く生きたい。

碁石みたいな丸い石がある浜というか、単に桂浜の
事をちょっと思いだし、行ってみたいと思う。

カナリア存外に膨らむなと思ったが、色合いがはっきりしてて
いい感じ。早いとこあったかくならないかなと思う。

80年代も何も95年位には明らかに形式的に破綻してるような
(カルトに親和性の高い)ものがあり、そんなの単にごく実務
的に生活してれば自明のことなのだが、そういうものの方でいつまでも観客なり消費者なり、吊るし上げで破綻する人なりを必要としてるというのがつくづく不気味に思う。しかもそれが心理的レイヤや無意識みたいなものの挙動と撞着するというのが(本来だったらカルトの教義と人の行動を撞着させるのに通信や擬似科学が利用されるのなら、厳密にどういう方法かフレーミングする必要がある)。一定以上信者が居るのだし、教義に対してリアリティ感じてなくても遺産の分配と利権の問題はそれはそれでボリュームあるだろうから、簡単に問題追及出来ないのは仕方ないのかも知れないが。
4年前にこの件で取ったコミュニケーションの中で、明らかに数名で
居るとこ巻き込まれてストーカーされているのは記録に残っている為、その方たちにもちゃんと片をつけて説明したい。

口汚く再三警察に通告したお陰で平板化したし
盗用も減ったがここまで毎日の事だし、やっぱり表向き国営放送
とかを悪用しながら他人を丸ごとホールドするという手口に
異常さしか感じない。それでそういうものに恣意的に消費者として措定されるなんてあり得ない事のように思う。

芸術に脳科学など100パーセント必要ないし、もし必要とされるとしたらそれは専横で、尚且つ芸術の形式を感じ取る人から本来聞く耳持たれないものでしかない(反解釈の様だが何処かで絵を見てヴィヴィッドにいいなと思ってる時、「脳が」と考えてたら異様だろうと思う)。これも自明の事のように思えるのだが、機械論なり還元主義的な脳解釈と、訳の分からない隠語運用の下流に芸術のリソースを引き当てようとする姿勢があり、芸術批評なんてとっくに破綻してて何の影響力も持たなかったとしても、だからこそちまちま采配振るいたがるとしたら気持ち悪いし邪魔なので、芸術の実作者なり鑑賞者の方でどうにかすべきなのだろう。(ミクロファシズムとかそういう事でもなく、単に言いがかりというか、もしそれを認めてたら生活能力皆無の芸術家を脳科学経由で互助するみたいな、過度に甘ったれた話になる)
万事何こいつ、としか感じさせないものが生き延びてる事に、今更ながらびっくりする。

仕事する時もアートなり何かの作品に触れる時も、カルトと脳科学の統覚なんて単に不気味という気がするのだが、世間的にどうなのか。