ドゥルーズは

ズーラビクヴィリは奥まったとこにしまってあるなと思いつつ。
ドゥルーズ音源聞くというのも意味するとこが分かりやすいんじゃ無いだろうか。

ドゥルーズ生朗読とインダストリアル・ノイズの掛け合わせだが
ミル・プラトーとかSUB ROSAとか。家に居て一切社交せず
そういうの聴きたく、そんなものもほっとけず市場獲得できないのもとてもおかしい。

しかし今トータルで読みたいのは谷川民俗学であり、ベンヤミン
であり、ブルトンで意外と柳田学の南島への思い入れとブルトンの暑苦しさにも同じなとこが。

芽キャベツ ホタテ サラダで検索が。何か美味しそう。

ドゥルーズドゥルーズ=ガタリを読む時自分の日記が参考になるか、そもそも参考にする人が居るか分からないが、まずアルトー器官なき身体のようなものを取り出す時点で、ブルトンシュルレアリスムにおける教皇性、ロマンティシズムや神学的な色合いと全くあい入れない。ドゥルーズ=ガタリブルトンのような人が嫌いでありアルトーはもっと変な人という気がする。そしてよく言われるように臨床に当たっていたガタリはともかくドゥルーズは、ドゥルーズだけで書いてるとオーソドックスな西欧の哲学者としてのラインが必ずある(ヘーゲルがイヤとは言え)そして晩年フリーキーな人がやけに出てくる英米文学やマイナー文学に意味を見出していた点、物凄くポスト・ヒューマンな人という気はしない(批評と文学を読むとそういう気がするのだが)喘息がきつかったのだろう。
しかし何故かポストモダンポスト構造主義以降というタイムスケールと一緒に勢いよく人間性捨てる流れがあり、それが面倒な諸悪
の根源だろうという気がする。

nine inch nailsが楽しみだがモッシュとか心配だ
前回は充分距離があり大雨でステージが霞んでいた
また近場にまともな若者のご加護がありますよう

職場を雪で早くひけながら、今年はギャルをとても見習うつもりで居る
というか自分はやはりオタクであり、厳密に自分の書いている
文章にしか似ていないのだが、凄く(外形的に)茫洋としており、
だから余計自分のインカムになる筈のものを回収できなかったり
女性としての可傷性というか被限定性を試すために洗脳されたり干渉されたりするのであろう。

而も(←この表記変質的)なんの合意形成もなしに可傷性を試された場合、可傷部どうだったのん的な事を聞いて生き延びるという
選択があまり無いのはつまらない。ほんとは色々なアビューズごとその検証があった方が、何でこんな現実感で生きてるのかよく
分かるはずだ、と思う。そういったものを全て内的に取り扱うというのが、自分にとってドゥルーズとか内在性の問題だった気もする。
他に仕事が出来ず現代思想「市場」に単に居るだけのおじさんが、
自分の私的領域から収奪して、発想するのが私でオーサライズするのが他の男性主体、回収するには付き合えみたいな倒錯的フォーム
を強いた場合、やはりダメなゴミおじさんから潰していく義務が
あるように思う。というか現代美術批評の壊れ方凄い。まだポピュリスムに相応の物語を用意する為のゴーストライターというのは仕方ない気がするのだが、ダメなマイナー美術家で尚且つ自分で発想出来ない奴が、何で自分の変わりに単書出してるのか。しかもそいつは比較的近隣に引っ越したりもしており、そういうものが淘汰
されない構造に恐怖を感じる。お前は免許取れないし、結婚出来ないし、考えてる事にオリジナリティ皆無なのだからゴキブリのように淘汰される
そういう事をちゃんと呪いたいし、呪いながら相手が完全な無力感を覚えて自害したくなるところまで、特定宗派に依らず出来る様にしたい。

5,60代の汚いじじいに可傷性を試されたとか言いながら普通に
仕事するのもなんだなと思い、手だけのモデル
でもしようかなと思う。しかし私欲しい本は全部無理して買って読んでたし、アートの問題は人間関係の繋がりだけでどうにかなるとは思ってなかったし、当然発想から書く事まで全部自分で書いてる
のだが、出版ならその利権を老人がホールドしたせいで本質が凄く
見えにくくなっている様に思う。