それにしても

「差異と反復」を日本文学に適用して手薄な意識についての文学をカバーするという発想は、なんかよく分からないが、日本文学には予想以上に意識の流れが定着していなかった。

それに対し究極的には80年代をごそっと反復強迫したいだけの流れを、凄く不気味に感じる。そして私は慰労など勘弁してよとしか思えず、このことはドゥルーズが絡もうとそうでなかろうと変わらない。

シュルレアリスムでいうとたまに「アニセ、またはパノラマ」を読み返したくなり、若書きというかまともにユースカルチャーの本として、あまり屈託もなく美しい。
媒介変数としての人間ー関係とテクストが策略とアビューズ、放送利権を巡る不鮮明なノワールのような動機に包まれているという話ならありそう。

某コピーライターが本格的に弱り目のようで嬉しい。行きがかり上、なにされたのかまともに検証するし、完璧にネットなり端末を利用する時のリファレンスからずれてると思う。
気持ち悪いという感覚は、瑣末な商品にぞわっとくるような不要な話を添えてる点もそうなのだが、インターネットならそれを恣意的に解釈しすぎという点もある。