ズーラヴィクビリを

出してこないといけないなと思いながら歩く。忘れもしない、出てそんなに経ってない時に近所の首都圏と地元限定チェーン店の本屋で購入し、その時何だかドゥルーズは結構希望に満ちた事書きながら亡くなってしまったんだなという事を思っていたが、20年経たないうちにドゥルーズ読解がとんでもない事になっているような気がする。その頃はまだ常時接続のネットはなくカルトの犯罪から日も浅かったので、思弁は思弁で相互浸透を気に掛けないで済んでいた。脳と言っている人も居なかった気がする。

明らかに器質欠損させるオーダーと自明性が並行してある場合、
やっぱり記憶や同一性を優先させざるを得ない。
「差異と反復」にある事が理解しきれなかったので、エクリチュールレベルではどうにか書いてある事をなぞって達成しようと思い「変身物語」を改作した。続きを書いてみたい気になる。