動きすぎてはいけない

を、大変学ぶところの多い本だと思いながら読む。自分が依拠してる精神分析なりある種の神学的システムには全くスピード感がない。そしてハイパーテクストも情報識別の技術である以上、無尽蔵な時間と空間と情報の蕩尽というものでは全くない。語と語のリンクとかテクストとテクストのリンクで意味がそれなりに構築される。し、署名はなくとも選択された情報には固有性もアレンジメントもあるように思う。主観的にはそうだが、客体としてどうなのか。(速度を落としても、単にジェンダーが女性なんでもっとさっさと自己決定しろというのは卑小な部分であり、そうじゃないと身体情動を直に否定神学的だったりパラノイアックなシステムに組み込まれるという事が、往々にしてあるのではないか)
これから向こう10年をおっとりしたのろまで動きの悪いギャルとして生きたいのだが、思弁と精神分析が好きでMac好きとかいう時点でギャルへの道は閉ざされてるように思え苦しい。化粧すると一瞬ギャルの振りをした症候群が現れ、すぐ鏡像の向こうに神経の束として消えてゆく。


三年前に職場で現地調査の帰り地震にあい、その後左派イデオロギーみたいなものとか陰謀論的なものって全く見当外れだった事を思い返す。疎開する必要も無かったし「沈む日本」という事も無かった。
が、ずーっと老人に付き纏われてて、盗用で復興支援してるのも
表情も佇まいもやっぱり凄く気持ち悪い。

文学やアートはやはり、茂のような人の市場的な圧力に屈する必要がないというか、勝手に意識の謎を解き明かしてノーベル賞とるという気概も含めてセンスがどうかしてるのだと思う。
折角たまに美術手帳を読んでみようと思った時、ベーコンについてまともに言及出来る人の論でなく、どうでもいい感じで脳を基準に一元化された論旨が広がっていたら気持ち悪いように思うのだが。
ゴーストライターと全く関係ないが柳田國夫にとっての佐々木喜善の事をちょっと思う。しかし納得もなんの申し合わせもない。
というより資料収集部門と実際にオーサライズする部門が違うというのは柳田國夫と佐々木喜善のケースを考えればあり得るように思うし、単に契約下であれば余計なのだが、かたや怪異譚書く為に他を呪い続けたり、病ませたり略取し続けるという事がある場合、一応近代以降の人間なので内実を整理しておく必要はある気がする。
しかもやっぱり「沈む日本を愛せますか」は地震直後にないでしょと思う。復興に積極的でない企業は無かったし、川島織物の支援
に仕事をしていてとても共感した。
言いっ放しの老人ほんとに張り付いて来るし、とても気持ち悪い。
ハイデガーの急き立てみたいなものを数匹のおかしい老人が担ってて、多分普通の自分の趣味趣向じゃ関わってないのに、しつこくつきまとうわお金払わないわとなるとやはりおかしい。存在論的なレベルでなんか変であり、それがそのままおかしい老人のテクスト生産のスタンスに反映されてる気がする。

出版社から直接仕事を受注出来るようにしたい気がするのだが、
私はこざっぱりした普通の人という気がしており、事実茂より
アートとか音楽についてはセンスまともだと思う。ここを見ている方で仕事を頂ける場合、直接依頼下さってだいじょぶです(色んな意味で俺の面倒見ろ的なアクションは受けかねるが。盗用はされるわフルーツねだられるわ漫画かよという気がする)。
大体ゴーストライターしてやると言った覚えは無いし情操の欠落を疑似科学で埋めちゃいけない気がする。

理系文系問わずコピペって論文作成時の慣習なのかしらねと思う。
一応引用元とかちゃんと明記するので大学も私を雇ってくれても良い。というか変に転移してくるより仕事くれた方がまともな気がするのだが。

コピペもそうだが生活感情や食べたものや行き先をパクるのは
何でなのかほんと聞きたい。あと変な隠語で食べ物を呼ぶ権限は
まるで無く、特にカレーとか蕎麦隠語に繰り込むなと思う。
時節柄ついくず桜食べたくなったが、なんか脳が隠語慣れして
ダメな国粋主義者の隠語だったらやだと思ってくず桜食べ損ねる。

しかし宗派に依らない心理的な療法みたいなものは、被災した方の為にあるべきと思う。心療内科とか投薬を全然認められないのは、やはり医療費を圧迫するだろうし必要な方にケアが行き渡らないのは良くない気がする。