デリダ

…の事を思うと、男女同構造でファリックなあり方というのも
あるんだろうかなという気がする(例えば異様なまでの亢進した猛々しい性的能動性、窃視衝動と自己上位化を、なんとなく他の女性が説明出来る形で回収出来ないファルス中心主義女性ってあるかどうか。ぐおー、とかぎゃああ!びええ、うぎゃああ!!みたいな音声言語と共にいつも性的、みたいな有難い、あんまデリダっぽくない存在)
そういう事考えた時に思い浮かぶのは永田洋子の、同性に対する際限ない撞着と意味不明の略取、アクセサリーだの些末な装飾についての吊るし上げとミソジニーなんだが、もう一ケうっすらやだなーと思ってるのが女性を覗きの対象にする女性や何か色々とあてつけめいた分断工作を試みるタイプで、私が東浩紀さん読み直さないと「動きすぎてはいけない」読み取れないなと書いたらはっきり「私は東浩紀嫌いだ」と書いた人が居るので、私は一貫して東さんの娘さん可愛いと思うし、デリダはファリックな攻勢のせいで脳みそに穴が空いたので、何かあちこち読めてないですよと書いておく(そういうのを書き残しておくのが、他人の外形真似て断片的に言い放つんじゃなくテクスチュアルに誠実という事と考えてる)。

なんかここ数年、最大瞬間風速的に他人のする事真似てあてつけつつクダ巻いてるだけでも研究職なんだな、私も花柄の壁紙を貼った研究室が欲しいがダメなら自分の仕事と心身を放っておいて欲しいし、おじさんからはコンサル料と指名料が欲しいなーと思う。
前出の二匹と茂から回収出来れば充分食べてける気がするし、新垣さんのような契約抜きで専横的な態度を取った罪は重い。

形而上学に対するデコンストラクションとかそういう問題でなく、器質から根こそぎにするような僭越(例えば呪い)に対して、どう文書を残すかみたいな本質的に危うい話になるなぁという気がする。

「用語の意味を定めてみましょう。ある投資から可能な限り迅速に収益を上げるために、もしもわたしが粗悪な連続ドラマを制作して、世界中に売りさばきながら、より意義ある制作のチャンスを犠牲にしてしまうならば、そこでは商業主義がもう一つ別の計算による実践に打ち勝ったことになります。そこでなのですが、その実現されなかったもう一つ別の意義ある制作とは、実のところ他なるもう一つの市場なのです。商業主義はいつでも相対的なものであり、半ば即時的な採算性のある型を何がなんでも特権化しようとするそぶりなのです。即時性と短期の問いは恐るべきもので、というのも計算の規範と基準が今日では様変わりしてしまったからです。例えば今日では、いわゆる基礎研究の中でも2、30年かけて利益を齎す事になる研究(遺伝子治療エイズ研究など)を行えますが、20年前には同じ基礎研究が計算不能な不確かな未来に委ねられているようにも思われたものです。短期と長期の尺度はいつでも移動します。このことが、科学技術研究への投資の計算可能性に悪影響を与えているのです。だから商業主義は、結局のところ不確定のとても曖昧な概念であり、構造的に漠然とした概念であるのです」(テレビのエコーグラフィー)、、、成る程、、、、デリダ 厳しい、、実績
出る可能性のある他の研究者も研究してる事なら、なおさら衒いで先にお金だけ動かすなという事なのか、、
これでも脳科学とかにも言えることよねという気がする。
そして東さんはまともな方にとても思え、横浜で棲息領域が
かぶるので、語尾がかぶっているうちに内装のお仕事があればご用命下さいとお願いをしてみる。が、応答義務はまるでない。

老人二匹が相当黙るモードになっており、なおかつコピーライター
は喧嘩の流儀について声高に言いながら文房具とか売ることの矛盾に全く気づかない状態で墓地に足を踏み入れたようだ。とても嬉しい。どうせ私は90まで生きるので、老人の分のポストなりお金がちゃんと回ってくれば、とても理不尽な目に遭っていたとはいえすぐ回復するだろうなと思う。究極的には80年代の事なんて
よく知らないし、雑貨は雑貨屋、食べ物は食べ物屋さんに任せるのが一番確実で、若い人の方がそこらへんの認識はしっかりしていると思う。
内部統制より真実の方が強く、今は2014年で老人たちが采配を振るっていた1984年頃から30年経っているのである。

全共闘は90年代半ばで感覚的に終わっているという話と別に、
科学の名前の下で、発見が空手形になりかねない嘘を先についちゃ
いけない、という、考えてみれば当たり前の事なのだが、ノーベル賞に一番近い科学者とか、人間の感覚には共通のルールがあり
数学的に説明できる、というのもみんなそうだなと思う。その
空手形のせいでまともな研究に投資がなされないという事なのだろうけれども、特に脳科学とか心身に直接関わる医療で、空手形がどんなもので、その話に傾くとどれだけ(一般的な幸福追求権が)圧迫されるかは、統計を参照するとかでしっかり指標を出す必要があるんだろうなという気がする(例えばノーベル賞を取るという嘘をついていた人間が同時に脱税し、なおかつ人体実験にも加担していた、など)。ちゃんと言葉にすると科学以前の問題の気もする。

有用性という観点から見た時に、心身と情動がクリアでないまま贄のように使われる体系と、恐怖感は結びついている。が、かなり精確に「それはこういう話だ」というのは説明可能であり、クリアランスを取れる体系と心身のシステムがどう並行しているかもある一定のルールがつくれる気がする。が、例えば自分が頭痛く、それを知っている人がいるような場合に、身体は恐怖を捨てて自己保全するために、結構いろんな悪あがきするような気がする。
そういう恐怖感の緩和のために特定の宗教システムを思い出すのは何だか変なのだが、結局ここ数年、私は某系列のカルトに対して、身体的異和からプロテスタントの事思い出してしまった。全然熱心でなくても、全身水に浸さないと、というのが、命題みたいに起こってきた過程を思い起こす。

で、やはり自分の身体実感に妙にしつこい60代男性がいるのは気持ち悪く意気消沈するが、それは「呪い」でなく身体実感の記号化と外在化に伴い、論理的に説明可能な何かだ。でも呪いだと言って自己放棄させ易い体制をつくりたいというのは尋常な事ではないと思う。自分にFIXしない変な身体論なんて要らないし、それがある種の特殊な左派性の中でのみ発動してドグマ化し易いものだとなると、笑い事じゃなく私には合わないから、と言わないと駄目な気がする。というか書いてて既にあー気持ち悪い、と思う。