現実界の砂漠へようこそ

政治的傾向と全く関係なく(そういうものは皆無)メディアとの関わりにおいて内面が荒廃した時に現れるディメンションを離人症的な感じと捉えないとして、ジジェク現実界の砂漠へようこそ、の事を思い出す。そこはマスキュリニティが高く仮想性が高く、実体を外在性がコントロールする。そのライン上で心的資源とか日常性が枯渇するような見たては(多分本当は)取り立てて正しくない(というかそこまでされる筋合いはない)。でも何か釈然としない侵犯性がある場合どう考えればいいのか。(そもそも心因的なものじゃなく、本当に外因、テクノロジーの問題だから良くないんじゃないか)

ともあれ実際に現実界の砂漠みたいな感覚があった。流れで「杳子」みたいな内因で離人症的なのと外部構成(メディウム)が実際に過度にコントロールされてて離人症的な働きになってしまうのと(同時間に誰かに無理矢理転移されたり)、二重構造になる場合について考えようとしたが、うっとおしい気もする。究極的に言ってそれで何が解明されようとしてるのか全く不明。かといって切断し切れないのが難儀なところ。

老人コピーライターは「耳でも、目でも、身体全体で聴け」みたいな事を書いて、こういう言葉遣いが全身総毛立つ程気持ち悪い。モレスキンとかデルフォニクスほ手帳を買うとき、一切こんな発想はない。そして茂の本のタイトルが「人生がときめく片付けの魔法」のほぼ盗用なのに驚く。末期症状というか本出すという事だけでなんの考えもなく、パクリのtwitterで本出しても平気よねと思う。
外界に一切自分の感情の宛先を持たない事なんて出来ない訳だが、
何も考えちゃいけないんじゃないか、という位外郭的に気持ち悪く、やっぱりそういうものが私的領域に触れる事に納得いかないのである。

ほんとだったらこんな色気のないことじゃなくて、ベンヤミン
元ネタに書いた童話の元みたいなものを十年続けたかったが、
コピーライターにせよ内田樹にせよ脳科学者にせよ、生活雑貨だの感覚だの住居に言及する癖によく覗きが平気よねと思う。単なるミソジニーとも違う独特の質の悪さ、何だろうねと思う。

このタイトルのおかしさも含め(出版社がつけるとかあるんだろうが)やはり全然具体性がないし丸ごと盗用で平気なんじゃないと思う。しかもかなり広範に、他の感覚の達成とか定立をパクリ取らないと成立していない脳というのは、どうかしている

肩書きは「買春用途の女性をパーツで呼ぶ覗き万引き老人(団塊)」でいいのではないかと思い、あんまり名誉教授じゃないというかはっきりイヤなのじゃないかという気がする。少なくとも私は邪魔されたくない。し、何かやっぱり杜撰でうるさい感じの猟奇感があり、その状態で文具や雑貨に言及して欲しくない。その状態で指先のアクションを見られた時点でお金欲しかった。

資料確認しつつ、カスタードプリンとかババロアみたいなもの食べたいという気に。
老人コピーライターの雑貨市場縮小したっぽく嬉しい。

何が一体対価に価するんだろうねという気がする。花? 手○○?崩壊感覚?
(真ん中がいちばんわかりやすそうだよねというか人生は隠語化しにくいな)

老人に首筋つまんでやるから300万寄越せと言いたい。
老人とその娘から、女性を貧困化させることの愉悦の
遺伝みたいなものを感じ(娘さんには仕事に対するリソース
の足りなさとして現れてる)、自分は単に市井でブルトンとか
ドゥルーズを読んでいるだけで老人の本を進んで買わないのに、
そんなの絶対ダメでしょと思う。というか他の仏文科教授と比べて
赤の他人をそんな話に巻き込む時点でダメ過ぎるとおもうのと、
茂のタイトルパクリもそうなのだが女性(市場)の抑圧の形式
があまりにも不気味で、本来ならフェミニスムと関係なく女性
利用者を皆無にする事が出来ればいいのだろうと思う。