かかわらせて頂いてる

仕事で様々確認。(ありがとうございます)
…落ち着いたら単なる「癒されるデザイン」について考えてみようという気に。
それと共に一時期の全身総金縛りみたいなことについて、ちゃんと
内実を解明していきたい(怖い。が、呪いではない)

今図面の網がけに建築表記以上一定のルールあるか、自分はどうするか少し気にしている。

一段落したらオーソドックスにベンヤミンを読もう。そして使っている技術が思いもよらず夢中になれるものである事に気づき、嬉しい。

「動きすぎてはいけない」を読んでまず自分の地頭の悪さみたいな
ものを感じ、ドゥルーズの晩年の作品が身につまされるのとまた別に、切断以前の問題としてポスト構造主義の「これは考えちゃいけない」という領域の、思いっきり的になっている気がした。しかし隠語運用による心理的インテンシティの低下とか、それを適宜年配のもと新左翼とか老人が要請しているということは、何かもう構造的に避けられない事なのかなとも思う(というより神秘主義ダブスタになっていて、幾ら整合性をとっても呪いたい人は呪いたいし、下らない製品を売りつけたい人はそうなのかとも思う)。老人は病ませて入手できればなんでも良いのだろうという気がし、世間的に生活してる時そういう人たちの態度が問題になること殆どなくて、やっぱり耄碌と結びついた悪なのに誰もそう言わないだけなのだと思う。
こんな曖昧な感想ではいけないと思う。それからズーラヴィクビリの事、アリアドネの迷宮について書かれた現代思想ドゥルーズ特集、同じ号に載っていたニーチェをもとにした生きることと生き残る事の違いについてみたいな事をぼんやりと思い出した。とても長い時間が過ぎた。

老人は完全に平板化した。やはりはっきり数名の左翼老人の現実認識がまずく、彼らの資産をしっかり返納させて普通のクリエイターが盗用などの被害に合わないようにソーシャルデザイン(ネットも含めて)しないといけないのではないか、と思う。そしてそれは別に妄想ではない。

お茶を飲みながら柏餅食べよっと。究極的には言わないと平板化しない困った老人というものに、実生活の中で全く遭わない。
少量でも少しずつでも実際に作る人が素晴らしい。
あと最低限の生活要素を守って価値観を広げる人が。
大風呂敷と略取盗用はあまりというか全く素晴らしくない。

これ大好きで

ここから立ち上るほうじ茶の匂いに魂がふれる

柏餅はしかし桜餅と違い塩気がない
味噌餡だがあまりしょっぱくはなかった。
とても美味しかった。

老人じゃない年代として責任持って略取分も含めて、採算を
取らなければいけない。そんな事を考えながら。
老人はほんと状況についての示し合わせしかしておらず、そういうのを大変空虚に思う。

体重増えなくとも板チョコを2枚食べてはいけないことを学習

地頭というか脳にディフェンシブな構成が無い、という発想は変だと思う。それがないと生物学的に画定してないだろうし意識活動してないだろうし。でもそういうあり方を合意形成なしに求めてる系譜の話があり、多分それが全部僭越で変なのだろうと思う。

「私たちの脳をどうするか」を読もうと思ってて買えてなかったが、かわりにガザニガの「社会的脳」を読んでいた。
凄く大雑把だが一旦自明性が定立したら記憶とか資質を元手に内部侵攻的な手口なしに現実を感じていいと(人は)素朴に思っている、しかし一部の脳科学にとってはそうじゃないという点。
他、ニーチェの免疫不全性について、みたいな事を淡々と考える。

就業というか社会生活してる時点で、脳なり生活にディフェンス無い方がおかしいと思うのだが、何かの学律なり科学的パラダイムがその事を分からないだけでなくその事(脳や生活構成のある程度ディフェンシブな構成)の挫折者であって、そこから内在として取り分けてる部分にしつこく引き合いかけてる、というのが理不尽さの元という気がする。