ヴォイツェク

人体実験に泣くのは勝手だけど多分日本文学では
題材にならな過ぎたというのが実情なのだという気もする。
その部分をちゃんとテクスチュアルに提示しておかないと、
そういう事が身近にあった場合対応出来なく、結果として
精神医療費がかさんだり嗜虐に医療技術が使われるという
倒錯的なお話になってしまう(もっと言うとここ10年くらい、
脳科学の体裁をとった倒錯的な医療崩れの言説に、権限
を移譲し過ぎなのではないかという気がする)
ビュヒナーの「ヴォイツェク」は人体実験の話だし、シルヴィア
プラスが異様にマスキュリニティを強調するイギリス人の詩人(テッド・ヒューズ)に
抑圧的な感情を抱くアメリカ人の女性詩人として、拮抗しながら
書いた構造だってある意味人体実験的なものだったと言えるかも
しれない(プラスは軍産複合体と、そういうものが個人の経験域
に介入する可能性についてエッセーで触れてた)。
支配被支配の間に、明確に回収できる項目がないというのはよくない出来事で(というのも不安が基準を大きく占めるので)、そこに明確な文学上のルールみたいなものを措くことも、それなりに
意味のあるプロセスになる。

という以前に出版を利用した成金数人が、何でここまで盗用を
咎められないのか、という点、全然内実を伴わない雑貨の販売
が見過ごされてる事の下らなさを、どうにかもっと認知させたい。
そういうの宛に汚物好きのおばさんが居るのは仕方ない事だと思うのだが、若い人に迷惑掛けずその機構内で下衆さを回収して欲しい。

要はさらっと普通に資料収集したりしてる時の状態に比べて
気持ち悪すぎるのよと思う。
そういう人が成金として外部化され、他人のパクリ満載で偉そうな事を書き、脱税を億単位でし、誰の脳によくましな世の中になったのか。何か起きた時に結果から責めるのは良くないけど、本体の会社について元々悪感情を持っていなかったので、余計こういう変な研究員を野放しにしない方が良かったのではないかと思う。
(それこそカセットとMDプレーヤーまではその会社のものを使っていたので余計にそう思う)。

脳科学以前に、なんか情緒障害のようなものを広汎に感じて、
そういう人に絡まれてると自分はあんまりそういう性格じゃなかったにも関わらず、偏差してやばいなという気がする。
なんかもっと大向こうの安定した幸福感とか生活圏の気分良さに貢献して欲しい。そしてそれに従事する人間に迷惑を掛けないで欲しい。

内田樹は何で私にいつまでも絡むのかわからず、4、50年配の汚物女性を確保したら継続的にそれを共有し倒せばいいのだと思う。
仕事をしながらほんと不快で総毛立ちそうになるが、特殊というか陋劣な感じとか凄い嫌。

老人コピーライターに対し、何あのセンスみたいな言説がちらほら
ちゃんと出てきているようで、私としてはそれまで行ってきた抑圧とさっさと退くべきなのにそのタイミングが分からなかった事も
含めて、気持ち悪くてしっかり落とさないと先に進めない。逆に言うと今までどれだけもみ消ししてきたのかと思うのだが。


どうしょもない陰謀論的な語法について色々と思うところある。
それ以上に、シビアにインスパイアされつつ仕事を干すか妨害する
40以降の人に対して、どういうつもりでそんななのか確認したいという気がする。有り体に言って私に異性なり同性の友人が居て、仕事あってそこそこ寛いで生活する可能性が、彼等には全く思い描けないのだろうという気がし、何だか現実感が無いのだ。

癌だからガンガンという擬音で呼ばれてしまうのもそうなのだが、
表象文化論科周辺の医療的ぞんざいさと「バカの壁」がヒット
したあたりからの、脳科学の横柄さがリンクしてるように思う。
そんな中で変な研究の為に人体実験が解禁になったり同性の覗きに走る4.50代のおばさんがいるのだとしたら、本当は刑事罰の対象になってないとおかしいでしょと思い、更に薄気味悪いのはトレヴィルとかリブロポートくさい感じが60代の才能の枯渇したクリエイターの餌みたいになってるとこだと思う。しかし2.30代の女性はそんなとこで安い性的単価で老人の相手してる暇は無いというのが実情な気がするのだが。だから老人コピーライターの作ってるものに多くの2.30代女子は関心持っていないのだと思う。
何か大々的に95年以前位の感覚に引き戻されそうで不吉な感じがある。そして、バシュラールにしろブルトンにしろベンヤミンにしろ、あるアスペクトでそういう気持ちの悪さからしっかり切断されていると思う。 (というよりはある程度ロマン主義的に意味のある内包物と連続性を感じさせる)


Twitterやブログの内容を出版するのがメディアミックスに相当するか分からないのだが、内田樹とか茂木のように出版の実績があり後あとSNSを商業化した人が、そのSNSの元をまるで無名の一個人の私的領域(ブログだけじゃなく正に私的領域)から引っ張って、更にその一私人を性的慰労物扱いしようとするのって道義的に問題ないの、と思う。問題ありまくりな気がするのだが。
そしてTwitter使って他人の私的領域を侵犯したりフリークアウトさせる事が、何か科学的なり人文的に意味のある行為だとあんまり思えない。
ベンヤミンや中井のように、感覚と媒体化を巡って全部メディア論として読めるものを書いた人って、その点今でも充分理解できるまともさがあるなという気がする。

wiredに載っていたルーマニアの男の子は、目の見えないおじさんの治療の為BMIの研究をしたとあったが、それは建前かも知れないけどギークならギークで建前ないのも何か気持ち悪い。それでは単なる症候群になってしまうのだし、それでノーベル賞に一番近いというのも欺瞞の気がする。
おそらく文学者がもっとしっかりしてれば、このタイプの変な科学者が市場だけ広げるという事はなかった。今からでも文学者がしっかりするのである。