覚書というか

情報処理とか媒介変数化で超越出来る層とそうでない部分があり、それに対して美術が言える事なんて古典的な自然科学と美的要素の関係を言語化出来てない限り、下らないその場しのぎのジャーゴンに始終してしまうだろうと思う。


という点について、例えば人間の感性的領域と自然科学、美学の対応には連綿と歴史的見解がある。知らないのに口出すなというのをこの手の人はおっさんの抑圧だとかポストモダンじゃないとか言って過剰反応で回避するが(自分も十分おっさんだが)、一般的な評論家じゃない美術好きの人の方がよっぽど向学心あるし素直なので、そういう事自然に知ってて絵を見てたりする。でも美術家として立場を捏造しないといけないとなると、今度ビッグデータというのが出てきたのでそれをかじっておけば何となく先鋭的な事してると思って貰えるだろう、程度の見たてしかないのである。そういう見え透いた人は当然承認得るのも家族形成も難しいだろうと思うのだが、必死に異性からの承認受けようとして私に依存してるとしたら迷惑過ぎる。今からでも十年分外注費請求したいし、科学だけじゃなく美術分野の人のデータ流用や不正入手もちゃんと調べ上げた方がいいように思う。

仕事の準備しながら、ほんと私の生活に一切張り付かないでと思うのと、悪趣味な事だけど女衒に懐柔されたセレブというか成金の言語運用で文化生産が汚染されたり水増しされる様を、それこそ「データとして」観察したら面白いだろうなと思う。
茂木健一郎のしてることは殆どそれだけに始終しており、もっとまともなアーティストや科学者に本を出してもらうべきと思う。

成金が女性調達する時の隠語運用が、自分の意識の問題を解き明かすと思える人はとても少ないだろうから、こいつもういい加減消えろと思われてしまうのは仕方なく、かといってそういう成金が調達する人材として的にされるのも意識の問題ではない気がする。
色々思うところあるけど、意識の流れのテクストはものすごく美しい。何故日本語の日本文学では定着しなかったのか全く分からず、どうせなら女衒とずっぶずぶの人なんかよりちゃんと意識の流れの研究をしている人に本を出版したり研究して欲しいと思うのだが。
よく考えると脱税者や屑や整形女性の介護を普通に社会生活してる人がするのはおかしくて、そういう体制で強権発動してるのに対しては最初負け戦に見えてもやっぱり吊し上げた方がよい。

だから結局、学習しなくても感性的領域と自然、美学の対応に快を見出して絵を好きな人というのはすべての年代に居る。実際それで80代位で画家デビューする人も居るのだし。にもかかわらずデータマイニングだのTwitterだのビッグデータを持ち出してこけおどしの去勢を試みるのも変だし、そのこけおどしの8割が他人の盗用と受け売りの場合、キュレーションがどうの以前に美術だの文学の批評に携わらせる意味ないんじゃないと思ってしまう。それで私のように自分からパクり取られたものをネタに同意を求められるとかおぞましいのである。

たニャか先生 この美術家分の美術批評のポストはどうしたら
もらえるか教えてください
茂はお金を支払いなさい(他にお金だけ請求したい向きがある)

意味不明に女衒の隠語運用について熱く語ったと思うが、江戸期の戒名が売女の話を読んで慄然とする。(100%他人事としてだけど)。

しかし江戸期の戯作の話は面白くてつい上田秋成とか山東京伝とか読みたくなる。
菊花の約も吉備津の釜も青頭巾もWebで読める。世界文学全集みたいので読んだ時の感じとべつの意味でこっわい
夢応の鯉魚は素敵な話。

多分色んな人が書いてるが、澁澤龍彦は幾らペダンティックでも
書くべきことを分かりやすく、必要な分量書く。
そうじゃなくて情報としか言えないものを、直近の欲求にあわせて書き流してパクり8割という場合、何で文筆業か分からないのである。
説話や戯作や小説も同じで、くっきり今読んでも妥当性があり、
それは他人を盗用しても書けないと思うのだが。