数名の

Twitterを見ていて、みんな私の事が大好きなんじゃんと思う。
好きすぎて第三項排除しちゃうけど(病的確信)。

第三項排除と暴力という系列のお話(ルネ・ジラールとか今村仁司とか)は、ベンヤミンを読む上で重要な気がしたが、それが
再度象徴秩序化の為の手段になって一筋縄では自殺や精神崩壊に追い込めず、またそういう方法を(他人の監視や越権的に医療技術を使うことによって)分不相応に使った方が気持ち悪がられるのは仕方のない事という気がする。し、ベンヤミンを読んできた以上そこにどういう潜勢力が働いていたか考えてみたいという気はする。

物象性と離人症、ファントム空間論の事など、基本的に他に開かれた形では考えないだろうと思っていた事柄(それをジャコメッティを入力しながら思い浮かべていたような気がする。それから十何年も経つ間、もう少し進歩史観的にでなくマシに考えられた筈)。

ブログのタイトルを「14行詩網 ミニマモラリア」から「ラカンに崩れて」に替えた時にかなり連続テレビ小説を意識した。だからさいしょ14行詩で後はテレビドラマのように症候を突き詰めて紛糾する人どもの青春群像があり、メディアの腐敗は批判され、最後は普通に滑らかな日常に還るみたいな形式上の変遷がないといけないと思うのだが、そういう事を一日を何百ページもある形で追っかけたモダニストの作家はまともだった気がする。

フォートリエは二回見る事に。感覚を凝縮したい。

連続テレビ小説 ラカンに崩れて」 かっこいい
確実にテレビ離れした若者の心を掴んで離さないだろう。
なにしろほんとにテレビの中から語りかけられて症候の
一端を味わえるのである。

2,30代は屈託してる人でない限りやっぱり人間がきれいである、
と感じる。おかしい60代に労働市場の管理と文化生産を諦めて
貰うだけで事態は随分良くなるだろうと推測。

女衒と投資家が私的領域から撤退するに伴い、7センチ以上ある
ヒールが履けるようになり嬉しい。真っ平らな靴しか履けなくなってたが出してきて(特にBEAMSか何かのスエードの靴)履く。
しかし人はスエードのハイヒールの手入れをどうしているのだろうというか、踵打ち直しの必要が出た時と磨く時に結構手間。

象徴秩序化はともかく中井を読むのに邪魔にならないリアリティがあればそれでいいなという気に。

神的暴力と神学的暴力、外在の力と2014年現在のリアルポリティクスがどう絡んでおり、何処にどんな形式をプロット出来るか考えるのはそれ程無駄でもない(暴力論のベンヤミンよりやっぱりパサージュとかミッキーマウスを論じてる時のベンヤミンの方が好きだが)

駒場はっきり焼き直して略取しかしてないように見え、バシュラールについてはお金貰えないかなと再三再四思う。
外国語能力については、洗脳だの嫌がらせ無ければそれは誰だってそこそこのところいくように出来ており、そんな事より80年代をそのまま反復するとか直前の性的なコンプレックスに基づいて変な女煽ろうとする姿勢が心配。
元々そこがリテラルに不審だったが、澁澤龍彦は自分のコンプレックスの希薄さをオブジェクティヴな操作性の良さ、文章の簡潔さに結びつけており、そういう書き方は明確にされているのだが、何で粘着してくるのだろうかしらねという不信感は残る。