谷川民俗学と共時性

何でそれを読み込むのかいまいち分からないが。
思考や意識の拡張というテーマに、民俗知のロマン
ティシズムによる離接や共鳴を感じる事自体は
仕方ない事なのだろうな、という気がする。

医療技術を悪用され得る心身が感覚のリミットに
なる、というのは考えとしてなんとなく気分が
悪く、ドーピングで際限なく心身能力を高める事の
破綻みたいなものを思い起こす。
けれど中井正一の水泳も実際泳ぐ以上の心理的構成を一度
くぐっている。
複雑系のカオスの淵がそれにあたるか分からないが、
欠落を強いられた縁の感覚にしっかりと次のリアリティが
構成され、乗るという事があれば。

たニャか先生が何か言いたげなので、私は何時でも契約書頂く
準備ありますとお伝えします、、
写真論じます論じます、というより、クーデルカ展が素晴らしかったが、二回見に行こうと思う前に展覧会が終了してしまった。
女衒の親族の写真家も胡散臭いし、某美術家のような状況に
対する様子見写真もとてもキモい。それに加えてヴィオレッタの
事もあり、実の娘に対する耽美写真も多額の慰謝料請求の対象に
なる訳だから、本当に女性の盗撮をもっと厳しく取り締まるべきと
思う。
クーデルカの写真を見ていて、撮らないとプラハの内乱は記録されなかったし、その事によって亡命を強いられた事も含めて、写真まともに機能してるんだなという気がした。
同様に欺瞞でなく略取や過度の権利侵犯があるならそれは記録されないと仕方がなく、日本はやっぱり北朝鮮のような国じゃないのである。

以前から再三再四書いてる事だけど、私が居なきゃそもそも発生しなかった話に対して一銭も対価を支払わないおかしい団体と、そういう点まともな企業とでコントラストがあり過ぎる。しかも前者では明確に契約不備が理由の犯罪行為が横行している。お金で手切れしたい領域と心情的につながりを保ちたい領域を整理しているのだが、コンプレックスだけ最上位化する人たちが居て老人コピーだったり老人の娘だったりして壮絶に気持ち悪い。

仕事しながら、しかし天気いいと本当に機嫌がよく、夏気分いいなと思う。
4ADを聴きたい。

宇宙開発にはすごく関心があり、思弁と外界(外在)がどう
対応しているか、みたいな事をあくまでも思弁的に考える、
みたいな感覚はあった(近年それをちゃんと突き詰めて考え
ようと思っても余裕が無かったが。というかローカリゼーション
された身体を通じて発現する夢のようなものと、ひたすら
継ぎ目を外れた共時的素材と全く違い、前者は民俗学でどうにか説明出来るという気がずっとしている)。

自分にとっては未だに、亡くなったその時にしか埴谷雄高に会えなかったというのが濃い憂鬱の感情になっており、それに比べると
大抵の出来事は説明可能な気もする。どうせ(という言い方はしてはいけないけど)宇宙開発するならやっぱり埴谷雄高がそうしていたように考えたい。

地域化された身体が行った場所の分あるというのを
コスモポリタンと思うのだが、そうしてとりあえず国籍をカッコで
くくる事すらあまり推奨されないというのを理不尽に思う、どうせ本質的な国籍は一つでしかないために尚更そう思うのだろうが。

ファレル・ウィリアムスかっこよい

同じ同じ(知らないおじさんだけど)
お仕事くれたら受けます(生きていかないといけないので)
イラスト書いたり文章書いたりします。
イラスト書いてみた