そして

女衒女性の自撮りを見て、やはり人相悪いと思う。
自分の人生の中で組織売春に自分からコミットしてない
のに勝手に目をつけられた挙句、反抗して棘マット呼ばわり
は一番衝撃的だった。ひどい散文的である。

生きてて「うわー、これは可視化されたら流石にはずかしいわ」
という考えを持つ事があり、おとといが正にその日であった、暴走する子猫の鈴のような建築マインドというか。

しかし感じ悪い隠語を積極的に取り入れていくのは、それに
増して何か恥ずかしいのである。隠語だけ登用されて本体は
来るなと言われている。駒場に。

バシュラールをどうしよう。
あとドゥルーズをもう少し丁寧に読みたい。丁寧に読みたい、この一言に尽きる気がする。

差異と反復、自分にはやはりそれがとても大きい。

クラウドファンディングの真逆のような状態という事を考えている。人的資質を解体され人権は無く、女性として自己決定する時に誰と組むかみたいな事しか問われず、その状態で蓄財にしか関心持たない4、5.60代がクラウドとか関係無く雲霞みたいにひたすら自分のする事を略取し、何故か換金しているという気持ちの悪い環境を。
その市場の方が惰性で大きいので、実際ほんとに考えている私への資金調達経路は分断され、考え事してるだけで悪とみなされる。
そういう時そのクラウドってなんなのというか、惰性で最後まで居直り続けるのは何なのと思う。獣くさい。苦手な感覚と思う。
第一本当にものを書く自由が無くて、締め切りにまで言及されるのもよく理解出来ない。

「例えば、古い商家では階段がそのまま収納家具になった箱階段をみかける。急な階段の側面がそのまま居間の中に向いて引き出しや戸棚になったものである。昔、京都の知人の家でそれを見かけて、魅惑にとらえられた事がある。私には、ある物の内部に他の世界が挿入され合成される心理的な過程を感じさせたのである。(中略)私は、昔から私の記憶の中で生き続けてきた箱階段の不思議なイメージが意識と無意識の境界に立つ物=標識であったのを理解した。つまり友人が語ったのは収納という機能を持った事物の精神分析であり、それは、事物とのかかわりが、直接には現れていない世界に触れることも含んでいることを理解させたのである。」(多木浩二「生きられた家」)
そこで人的資質と心理的形象をトポロジカルに還元して家具に喩えた時、「棘マット」て酷すぎる。もっと良いものである。

不遇でいろんな人を涙させたのち 逆らうと棘マット呼ばわり恐ろしい というか、これ民族誌的に何なのかちゃんと調べる方が良いかも
しれない
あれ❓ さっきまで泣いてたじゃん という感覚が凄い。