語尾がサフラン

突如として花の飾られる沈黙のなか、口端から息のかたちをした魚が流れ出る。唇は魚にもそなわっているし、それが軽く開いて新しい波が空気を染めるのを止めることはできない。語尾は金色のサフランだった、白い魚を煮るために針状の光を湛えていた。

「問題提起」という語について。
12年前の事だ。講義にもぐりに行った。アルチュセールについての今村仁司先生の講義で、私は何故かその時、自分には何かまともな構文のある文章なんか一生書けないんじゃないかなぁ、と悲観していた(自分でもよく解らないのだけど、読んだものと同じ精度のものがその場で書けないと変だ、と思っていた)。
アルチュセールの認識論的切断の話は、しみじみ独立していて(孤立していてと書くべきかも知れない)、とても恐ろしかった。何だか訳の解らない気の毒さをその時感じた。 感性というものが苦痛の感受とも深いかかわりをもっているとすれば、その時年端もいかなくて感じた苦痛の中には、なにかすごくアクチュアルなものが混じっていたはずだ、と思う。(ついでに書くと、チャーマーズの「意識する心」にも「使える現象学」にも、痛みという感覚と意識について触れられているけれど、別に意識についての問題提起上珍しいテーマじゃないのだと思う。問題なのはその痛みの強請が意味を持つかのように語られてしまうことで、その事を巡る主従のロールの固定を、メディアが上手く利用している、というのは、多分陰謀論でも何でもない。けれどそこに止まっている限り、意識についての研究を新しく開始したところで、ヘーゲルにさえ届けないんじゃないのだろうか。)